帝政ローマ人物事典

ユリウス=クラウディウス朝 (➀‐⑤)

オクタウィアヌス (アウグストゥス

在位期間 : BC27-14
出自/相関/経歴 :
‣母親はカエサルの姪。
‣病弱で軍才もなかったが、カエサルの戦争に従軍し、後にカエサルに後継者として指名された。
‣BC45年、カエサルの計らいでマルクス・ウィプサニウス・アグリッパと知り合い、以降、アグリッパは盟友かつ腹心としてオクタウィアヌスを支えた。アグリッパはBC20年頃にはじめて公立の公衆浴場(テルマエ)を建設させた。
カエサル暗殺後は彼の後継者候補として民衆や軍の支持を集めると、カエサルと共に執政官であり、同じく彼の後継者の地位を狙うマルクス・アントニウスと対峙するようになる。しかしながら、アントニウスよりも元老院と激しく対峙するようになったことから、自身配下のケントゥリオをローマに派遣し、BC43年の執政官特権を委託することとアントニウスを「国家の敵」として断罪することを破棄するよう要請した。元老院がこれを拒否すると、オクタウィアヌスは8個軍団を率いてローマに進軍し、ローマに入城した彼は、親戚であるクィントゥス・ペディウスと執政官に選ばれた。
‣BC43年、アントニウスカエサル支持派のマルクス・アエミリウス・レピドゥスと第2回三頭政治を行い、元老院派の議員や騎士を大量に粛清した。
‣BC42年、元老院カエサルの神格化を決定したことで、オクタウィアヌスは「神君の子」として元老院での影響を強めた。一方アントニウスは、オクタウィアヌスの影響を恐れてカエサルの神格化に反対したが、このためにローマ市民やカエサル配下の退役兵からの支持を失うことになった。以降、2人は明確に敵対するようになった。
‣BC36年、戦果を挙げることでオクタウィアヌスよりも優位に立つことを目論んだアントニウスはパルティアに遠征する(第二次パルティア戦争)も失敗した。この際、後背地としてプトレマイオス朝エジプトを欲し、カエサルの元愛人でプトレマイオス15世(カエサルとの子)の母であったクレオパトラ7世と親密になった。その後、ローマ人の妻と離縁し、アントニウスは彼女と結婚した。アントニウスは、ローマを裏切ってパルティアへ味方したアルメニア王国を攻撃し、国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。そしてその凱旋式をローマではなくアレクサンドリアで挙行した。それらに加えて、死後自らの支配領土をクレオパトラや息子らへ分割することを書いた遺言状の内容をアウグストゥスに公開され、アントニウスはローマ社会で孤立した。
‣BC33年、オクタウィアヌスプトレマイオス朝に宣戦布告し、翌年、アクティウムの海戦で破った。アントニウスクレオパトラは自害した。
‣BC27年、オクタウィアヌス元老院で全特権を返上し共和政への復帰を宣言した。元老院は驚喜したが、実際にはこのとき放棄した特権とは、三頭政治権などの内戦時の非常大権であった。これらはすでに有名無実化しているものばかりであり、執政官職は放棄しなかった。しかし、元老院はそのことに気づかず、平和が回復するまで属州の防衛も依頼する。これに対しオクタウィアヌスは、比較的安全な地域と軍団駐屯の必要のある国境地域とに分け、前者を元老院が総督を選出できる元老院属州、後者を軍団総司令官であるオクタウィアヌス自身が総督兼軍団指揮官の任命権を持つ皇帝属州とする提案で返した。オクタウィアヌスは軍団指揮と属州統治を行うためにプロコンスル命令権を元老院から取り付けた。その結果、ローマ全軍の一元管理が可能となり、オクタウィアヌスは名実共に皇帝となった。
‣共和制復帰宣言から3日後、カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、オクタウィアヌスアウグストゥスの称号を贈ることを提案し、元老院は満場一致でこれを受け入れた。オクタウィアヌスは数度にわたり辞退した上でこれを承諾したが、あくまでも元老院の代表であるプリンケプスと自称し、元老院の1人としてふるまった。しかし、実態は帝政であるため、この体制を元首政と呼んだ。
治世 :
‣25軍団の常備軍を創設した。
‣解放された奴隷(被解放自由民)は前科がなく、5歳以上の子供を持ち、3万セステルティウス以上の資産をもてば、ローマ市民になることができたため、人の身分規定が困難になっていたことを受け、奴隷解放の条件の厳格化(奴隷解放規制法)を進め、4人以上100人までの奴隷の所有者が解放できるのは奴隷の2分の1まで、100人から500人までの所有者が解放できるのは5分の1まで、3人以下の奴隷所有者は規制外と定めた。また、20歳以上のローマ市民にのみ正式に奴隷解放することを認めた。
‣出生届を制度化した。親が子供の出生後30日以内に当局に申請を行い、当局はその申告に基づいて、特段の調査もなく、出生の事実を出生登録簿に記載し、求められればその写しを交付していた。非嫡出子の記載は認められておらず、非嫡出子の親は私的に証人立会文書を作成した。ただし、いずれも親の意思に任されていたため、登録されていない子供もおり、裁判の際に不利になった。
奴隷解放税と相続税を導入した。
‣人口が密集したローマでは2階建から最高7階建てのアパート(インスラ)が出現した。ただし、木や脆いレンガで建築されため上層階にいくほど家賃は安かった。崩落や落下物による事故があったため、建物の高さを20メートル以下に制限した。一方、金持ちは一戸建て(ドムス)で暮らした。
元老院家系および騎士家系の者が剣闘士になることを禁じた。
元老院家系の者と俳優の結婚を禁じた。
‣ローマの幹線道路(ローマの道)の要所に宿泊施設と乗り継ぎ用の馬を備えた公共郵便制度を導入した。ただし、これは原則として公務での使用のみ使うことができ、庶民は飛脚を雇うか、手紙の宛先に行く人に託した。
‣理容師が髭剃り時に客の顔に切り傷を負わせた場合の罰金と処罰を定めた。
‣公式行事でのラケルナの着用を禁じた。
‣BC19年、祖父、父、または夫が貴族階級以上である全ての女性の売春行為を禁じた。
‣BC18年、ユリウス法を制定し、既婚男性は相手が既婚女性でない限り、妻以外の女性と肉体関係を持つことが認められた。既婚女性は、夫以外の男性と肉体関係を持つことが禁じられ、姦通現場を押さえることができたら、妻の父は娘と相手男性をその場で殺害できた。夫は彼女と離婚しなければならず、応じないと姦通に手を貸した罪で夫も裁かれた。姦通で有罪になった場合、男女はともにローマから追放されたうえに結婚を禁じられ、女性の財産の3分の1と男性の財産の2分の1が没収された。
‣BC11年、水道庁を創設し、水道長官の管轄下で、専門技師や240名の国有奴隷団を水道管理にあたらせた。
‣BC2年、アルシエティヌス水道を建設した。
‣BC2年、穀物配給量を抑制するために、受給資格を厳格化し、17歳以上の成人ローマ市民男性で、ローマ在住で、元々ローマ人であることを条件にした。その結果、受給者数は15万人から20万人の間で推移していった。また、食料供給長官職を設けた。
‣北東部の国境付近で外民族の帝国内定住を認めた。
コンスルのガイウス・アシニウス・ポッリオ に命じて、ローマ最初の公立図書館を造らせた。また、他に2つの図書館も建設した。
‣9年のトイトブルク森の戦いでゲルマン族に敗れた。
‣9年、パピウス・ポッパエウス法を制定し、20歳から50歳までの女性と25歳から60歳までの男性の結婚を義務化した。ただし、元老院家系の男性の女優、売春婦、女衒などとの結婚、女性の兵役中の兵士との結婚、属州役人の在地女性との結婚、後見人の被後見人との結婚は禁じた。また、寡婦の場合は1年、離婚した女性は6か月以内の再婚を求めた。加えて、独身者や子のない夫婦には相続や贈与で不利になるような罰則を定めた。その一方で、3人以上子をもうけた生来自由人の女性、4人以上子をもうけた被解放自由人の女性、5人以上子をもうけた属州民の女性を後見人から解放することを定めるなど、子だくさんの親には様々な特権を与えた。男性は14歳で成人した後は、未成熟者の後見人という成人男性市民から解放されたが、女性は12歳で成人した後は「婦女の後見人」という別の成人男性市民が後見人となり、土地や奴隷の売却や遺言を書いたり、契約を結ぶときはこの後見人の同意が必要であった。夫は後見人になれなかった。
‣14年頃、ローマ帝国の人口は4550万人(東方ギリシア語圏2040万人、西方ラテン語圏2510万人)だった。ローマの人口は約80万人で、約50万人のアレクサンドリアを抜いて最大都市になった。イタリア半島の全人口の約10%がローマに住んでいた。
‣直系の嫡子に恵まれなかったアウグストゥスは、3番目の妻リウィアの連れ子であったティベリウスを、先妻との間の娘ユリアを娶わせて養子とし、帝座に就かせた。

 

ティベリウス 

在位期間 : 14-37 (即位時55歳)
出自/相関/経歴 :
‣母リウィアがオクタウィアヌスと再婚したため、オクタウィアヌスに引き取られ養育された。
治世 :
アウグストゥスが築いた帝政の定着に務めた。
‣14年、ウィセッリウス法を制定し、元奴隷が名誉ある役職を求めることを禁じた。
‣官職選挙の場を市民集会から元老院に移すなど、元老院と協力し、帝国の安定を図ったが、元老院の体たらくに失望し、後年カプリ島に引き籠ることになった。
‣皇帝主催の戦車競技会や剣闘士の試合を中止する等の財政引き締め政策を執り、財政健全化を行ったが、民衆や元老院からの反感を買った。
元老院家系および騎士家系の者が剣闘士になることを禁じた。また、裁判で有罪になった奴隷を除き、奴隷を剣闘士にするために売ることも禁じた。
‣属州整備に務め、パンノニアでは多くのインフラ整備を行った。
アウグストゥスの時代から対立していたゲルマニアに対し、エルベ川進出に見切りをつけライン川およびドナウ川において防衛線を確立した。
‣パルティアに対して、ゲルマニア戦線の総司令官だったゲルマニクスを派遣して、東方問題の原因となっていたアルメニアの王位継承問題を解決し、東方の安全保障を確立した。
‣盗賊の取締りなど国内治安にも力を注いだ。
‣19年、ユニウス・ノルバヌス法を制定し、30歳未満や不正な手続きで解放された奴隷はローマ人ではなく、ユニウス・ラテン人となることが定められた。ユニウス・ラテン人はローマ法の保護のもとで財産を所有したり、契約を結んだりできるラテン権が与えられたラテン人と同等の権利が認められていたが、ラテン人と異なり、遺言を作成する権利が認められなかったため、自身の遺産を自分の望む相続人に遺せず、その財産はかつて奴隷として仕えた主人のものとなった。
‣親衛隊長セイアヌスとその一族をクーデター未遂などで粛清した。その時にセイアヌスが息子小ドルススを毒殺したことが分かった。

 

➂ ガイウス・ゲルマニクス (カリグラ)

在位期間 : 37-41
出自/相関/経歴 :
アウグストゥスの娘ユリアと腹心アグリッパの子供、大アグリッピナとゲルマニクスの子供。
‣父の死後、カリグラは母アグリッピナの元で暮らしたが、やがて彼女はティベリウスとの関係が悪化したため追放された。アグリッピナの新しい夫となる人物が自分の地位を脅かす存在となることを恐れたティベリウスは、彼女が再婚することを禁じた。
‣31年、カリグラはカプリ島に移ったティベリウスに引き取られ、そこでティベリウスの個人的庇護を受けながら6年間生活を共にした。
‣33年、財務官に就任した。
‣35年、ティベリウスの孫のティベリウス・ゲメッルスとの共同皇帝として帝位後継者に指名された。
治世 :
‣37年3月、皇帝に就任した。ティベリウス治世が極めて不人気であったため、カリグラの皇帝就任は民衆から歓迎された。なお、アウグストゥスは自身の後継者に直系の子孫を望んでいたが、結果的に直系ではないティベリウスが就任することになった。一方、カリグラは直系の子孫であった。この事実もティベリウスの不人気とカリグラの人気に拍車をかけた。
‣プラエトリアニや都市部の兵士のみならず、イタリア国外の軍まで含めた軍隊の兵士たちに賞与を支給した。
ティベリウスによって作成された反逆罪に関する書類を破棄し、追放された者たちの帰国を許した。
‣帝国の税制によって生活が逼迫した人々を保護した。
‣剣闘士による試合を復活させた。
‣同年10月、重病にかかった。
公的資金の収支を公表した。
‣火災によって資産を失った人々を助けるため、いくらかの税金を免除し、公共競技大会に賞金を設けた。
政務官選挙を民衆選挙に戻した。
‣38年、クラウディウス水道と新アニオ水道の建設に着手した。
‣39年、帝国に深刻な財政危機が生じた。
‣レギウムおよびシチリアの港湾開発を行った。これによりエジプトから穀物の輸入が増え、飢饉対策となった。
アウグストゥスの神殿とポンペイの劇場を完成させ、サエプタ・ユリア近郊に円形劇場の建設を開始した。
‣クラウディア水道と新アニオ水道の建設に着工した。
‣当時最大規模の巨大な船を2艘作らせた。どちらも沈没したが、ネミ湖の底から発見された。1929年から1932年にかけて湖底から引き上げられたが、第二次世界大戦中の戦災によって焼失した。
‣39年以降、元老院との対立が激しくなった。
‣プトレマエウスによって統治されていたローマの同盟国であったマウレタニアの王を処刑し、マウレタニアをローマ帝国に併合し、2つの州に分割した。
‣40年以降、公に姿を現すときに神々の姿に扮装し、自身の政治的役割に宗教を持ち込み、自己の神格化を図るようになった。
‣将校で、カリグラ治世では護民官であったカシウス・カエレアらに暗殺された。

 

クラウディウス

在位期間 : 41-54
出自/相関 : カリグラの叔父。
治世 :
‣奴隷が病気になったら、治療の責任は所有者にあることを定めた。また、病院に奴隷を置き捨てると、回復した後にその奴隷の所有権を主張することは許されず、殺してしまったときには自由民に対する殺人罪と同様の刑罰を科すことも定めた。
‣47年、働けなくなってアエスクラピウス島に捨てられた奴隷は全て自由身分とする告示を出した。
‣50年、スエビ族のパンノニアへの定住を認めた。
‣52年、クラウディウス水道と新アニオ水道を完成させた。
‣有能な解放奴隷を国政に徴用した。
‣水道庁の組織を拡充し、実務を担当する水道管理官のポストを水道長官の下に置き、460名の国有奴隷団を追加した。
‣三親等の結婚を合法化した。
‣弁護士の報酬を1万セステルティウス以下と定めた。
‣属州経営に意を注いだ。
‣最後の妻である姪の小アグリッピナに暗殺された。

 

⑤ ネロ

在位期間 : 54-68 (即位時17歳)
出自/相関/経歴 :
‣カリグラの妹、小アグリッピナとクラウディウス帝の子供。
クラウディウス帝の後は、クラウディウス帝と3番目の妻メッサリナの息子であるブリタンニクスが皇帝になることが有力であったが、クラウディウス帝の側近パッラスや小アグリッピナにより、ブリタンニクスの姉オクタウィアとネロとの婚姻が成立すると、ブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そして年少のブリタンニクスよりも後継者に相応しいとさえ見られるようになり、ブリタンニクスより先に即位する確約を得た。
治世 :
ギリシアで開催されたオリンピア祭の戦車競走に出場し、最下位だったものの、審判がネロの優勝を宣言した。その判断に喜んだネロ帝はギリシア人の貢納金を免除した。
‣アフリカ属州の半分を所有していた6人の地主に「遺産をすべて皇帝に遺贈する」と遺言書を書かせ、殺害した。また、死刑囚にも同様に財産の遺贈をさせようとした。これに反対してセネカは失脚させられた。
‣解放奴隷のドリュフォルスと去勢させ女装させたスポルスの2人の男性と法的な儀式を経て結婚した。
‣母、小アグリッピナの干渉を疎ましく思ったネロは母親と疎遠になっていった。それにより、小アグリッピナはブリタンニクスに接近した。55年、13歳のブリタンニクスを毒殺した。
‣59年、母親を殺し、妻も追放して処刑した。
‣59年、「青年祭」を開催し、60年から5年に一度に「ネロ祭」を開催した。戦車競走のほかにスポーツや音楽の腕を競わせた。
‣59年、ポンペイ円形闘技場で興奮したポンペイの住民とヌケリアの住民との間で乱闘が起き、以後、10年間、競技大会の開催を禁止した。
‣64年のローマの大火(ネロ帝が放火した可能性は極めて低い)で、キリスト教信者に放火犯の触れ衣をきせ、迫害した。キリストに従った十二使徒のリーダーのペトロはこのときに逆さ十字架にかけられた。
‣大火の教訓を生かし、建物の高さを17.75以下に制限する、各戸はそれぞれ壁で囲む、集合住宅には中庭を設ける、消火用の器具を設置する、住居の一定部分を耐火性のある石で造るなどの規則を定めた。
‣64年、貨幣改鋳を行い、アウレウス金貨を7.8グラムから7.3グラムに減らし、デナリウス銀貨を3.9グラムから3.41グラムに減らした上、デナリウスの銀の含有量を100パーセントから92パーセントに低下させた。
‣64年、ドムス・アウレアという黄金の宮殿を建設した。
ポンペイウス劇場で独唱会を2回開いた。1回目は地震に見舞われ、観客が避難してしまったため、2回目(65年)は出入り口を封鎖し、観客はいかなる理由があろうと席を立つことが許されなかった。そのため、一部の観客は産気づいたふりをするなどして会場から脱出しようとした。残った観客は兵士により拍手を強要され、しない場合はむちで打たれた。親友で後に皇帝となるウェスパシアヌスは独唱会中に居眠りをしたため絶交した。
‣66年、ユダヤ戦争でユダヤ属州民と戦った。
‣68年、ガリア・ルグドゥネンシス総督のガイウス・ユリウス・ウィンデクスが反乱を起こすも、上ゲルマニア総督のルキウス・ウェルギニウス・ルフスが鎮圧した。
‣68年、元老院の支持を得た軍隊に迫られ、自害した。

 

四皇帝内乱時代 (⑥-⑨)

⑥ ガルバ

在位期間 : 68-69
出自/相関/経歴 : ヒスパニア・タラコネンシスの属州総督(60-68)で、近衛隊の推戴で即位。
治世 :
‣帝国の財政の再建のために支出を抑えようとし就任時の賜金の支給や褒賞を怠ったため兵士らの恨みを買った。
‣69年、ゲルマニア・スペリオル(上ゲルマニア属州)の2軍団が皇帝への忠誠宣誓を拒んだ。また、ゲルマニア・インフェリオル(下ゲルマニア)でも反乱がおき、駐在していた軍隊はゲルマニア・インフェリオル総督アウルス・ウィテッリウスをガルバにかわり皇帝に擁立するよう要求した。そのため、ガルバは元老院議員の支持を得るため、親戚のオトーではなく、ローマの貴族ルキウス・カルプルニウス・ピソ・リキニアヌスを後継者に選んだ。そのため、オト―は、皇帝就任時に恩賞支給を受けられず不満を持つプラエトリアニとガルバとピソの父子を殺害し、帝位についた。

 

⑦ オト―

在位期間 : 69年1月15日ー69年4月15日
出自/相関/経歴 : ネロの親友で、若い頃からの遊び仲間であった。ポッパエア・サビナの夫であったが、58年にネロがポッパエアとの結婚を望んだため離婚した。同年、ネロはオトーをルシタニア総督とし、ローマから遠ざけた。オト―は総督として熱心に仕事に打ち込み経験を積んだ。
治世 :
‣ガルバを暗殺し帝位につくも、アウルス・ウィテッリウスはこれを認めず、挙兵しローマに迫った。オトーはウィテッリウスに対抗を図ったものの、オトーの軍は敗れ(ベドリアクムの戦い)、敗戦の報を受けたオトは自殺した。

 

⑧ ウィテリウス

在位期間 : 69-69
出自/相関/経歴 :
‣68年、ガルバによってゲルマニア・インフェリオル軍団司令官として派遣されると、財政支出を抑えようとしていたガルバと異なり、その気前の良さから兵士らの間で人気になった。
‣兵士らの指示を得てオトーを破り、皇帝に即位した。
治世 :
‣軍団に御輿として担がれただけの皇帝であったため、帝位を得た後の政策について明確な方針がなかった。そのため、新たに定めた法律などは1つもなく、贅沢三昧の日々を送り、剣闘士や野獣の試合を好み連日、豪華な食事でわずか数ヶ月で9億セステルティウス(約2250億円)を費やした。(その大半は食費だった)
ゲルマニア軍団の軍紀が乱れていることと、オトー軍幹部を処刑したことで市民の支持をなくした。
‣69年、ウィテッリウス軍は、ウェスパシアヌス側に付いた軍人マルクス・アントニウス・プリムス率いるモエシア・パンノニア方面軍にベドリアクムの戦いで敗戦を喫した。 プリムスの軍はローマに進軍し、ウィテッリウスは家族とともにパラティヌスに逃げ込むが、捕らえられて無残な最期を遂げた。

 

フラウィウス朝 (⑨-⑪)

ウェスパシアヌス

在位期間 : 69-79 (即位時60歳)
出自/相関/経歴 :
アシア属州の徴税請負人の父と騎士階級身分の母との間に生まれた。
‣62年、アフリカ属州に前執政官として赴任した。
‣66年にユダヤ戦争が起こると、軍司令官として同地に派遣され、息子のティトゥスと共に反乱を鎮圧した。
‣シリア、エジプト、ユダヤ属州の支持を集めると、挙兵し、ウェテリウスを破り皇帝に即位した。
治世 :
‣秩序の回復に尽くし、皇帝の権威を取り戻した。
‣ユリウス=クラウディウス王朝の皇帝たちに与えられていたのと同じ権限をウェスパシアヌスに付与する「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」(皇帝法)を元老院に制定させた。
元老院に与えられていた皇帝弾劾権を否定した。これによって政権交代は原則的に皇帝の死によってのみ行われるようになったため、後々まで皇帝の暗殺が横行する原因となった。
‣海外から優秀な教師を招き、ローマ市内の教育施設のレベル上げを図った。10万セステルティウスの高額な年俸が教師に支払われた。
‣73年、ネロ帝の時に始まったユダヤ戦争を引き継ぎ、ユダヤ属州民に勝利した。
‣73年、調査を実施し、ローマの街路の総距離数が6万パッスス(約89万キロメートル)に及ぶことが報告された。ちなみに、当時のローマでは住所表記はなく、〇〇沿いの〇〇の近くといった具合に説明的な表現で場所が表されていた。
‣74年、集めた尿を有料で販売する公衆トイレを設置するなど国家財政の再建に努め、成功した。
‣75年、ローマのコロセウムの建設を手掛けた。
‣79年、病気で死去した。

 

ティトゥス

在位期間 : 79-81
出自/相関/経歴 :
ウェスパシアヌスの長子。
‣67年、父ウェスパシアヌスユダヤ人の反乱鎮圧のためパレスチナに向かい、財務官として同地で軍の一指揮官として勤務した。その後もユダヤ戦争の鎮圧に専念し、エルサレムを神殿もろとも破壊した。
‣79年、死去した父の後を継いで皇帝に即位した。
治世 :
‣剣闘士試合を頻繁に開催した。
ウェスパシアヌスを揶揄する喜劇が上演されても一切咎め立てしなかった。
元老院との関係は良好で、反逆罪の罪状を使わないと宣言した。
‣精力的に公務に励み、市民からの人気は高かった。
‣ヴェスヴィオ火山が噴火し、ポンペイが壊滅したほか、ローマが3日間延焼し続ける大火災が発生した。ティトゥスは精力的に被災地の救済にあたったが81年に熱病にかかり死去した。

 

ドミティアヌス

在位期間 : 81-96
出自/相関 : ティトゥス実弟
治世 :
‣財政管理や属州統治などで大きな成果をあげた。
‣去勢を禁じる勅令を発布した。
‣治世末期になると恐怖政治を行った。
‣妻や側近、軍によって暗殺された。

 

五賢帝時代 (⑫-⑯)

ネルウァ

在位期間 : 96-98 (在位時66歳)
出自/相関 :
治世 :
‣去勢を禁じる勅令を発布した。

 

トラヤヌス

在位期間 : 98-117
出自/相関 : 低ゲルマニアの軍隊を指揮していたトラヤヌスネルウァが養子とし、副帝に指名した。その後、彼を自身の後継者とした。
治世 :
‣子供を虐待した父親の父権をはく奪し、息子が先に死んだ場合もその遺産を相続することを禁じた。
‣帝国の版図を外征により最大にした。
‣建物の高さを18メートル以下に制限した。
‣109年、トラヤヌス水道を建設した。
‣ローマにウルピウス図書館を建設した。

 

ハドリアヌス

在位期間 : 117-138
出自/相関 :
治世 :
‣芸術を奨励した。
‣法律をあらため、軍紀の引き締めをはかった。
‣各属州を訪れた。
‣去勢を禁じる勅令を発布した。
‣いかなる理由があっても所有者が奴隷を殺すことを禁じ、奴隷が罪を犯した場合は公の司法機関に告訴し、裁判の結果を待つことを定めた。また、屋敷内の牢屋の設置を禁じた。さらに、奴隷が所有者を殺した場合、告白を強いる拷問は殺害現場の近くにいた奴隷だけに行うこととした。
‣公衆浴場における男女の混浴を禁止した。
‣ローマだけでなく、属州でも初等教育の充実化を図るために教師の免税を命じた。
‣貴族のアエリウス・ウエルスを養嗣子にして後継者にするつもりだったが、彼が死亡したため、アントニウス・ピウスとマルクス・アウレリウス・アントニヌスを自身の後継者にした。

 

アントニヌス・ピウス

在位期間 : 138-161
出自/相関 : ハドリアヌスの後継者。
治世 :
カレドニア南部にアントニヌス帝壁を構築した。
‣官僚制度を整備した。
‣財政を引き締め、アウグストゥス以来最高の資産を国庫に残した。
‣奴隷に対しての残酷な罰を禁じ、奴隷に対する暴行行為には自由民に対する暴行行為と同じ処罰が下されるようになった。また、主人の横暴に耐えかねた場合は、奴隷は神殿に逃げ込むことができ、その横暴が証明されると、主人はその奴隷の所有権を牛に、奴隷市場で第3者に売らなければならなくなった。

 

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

在位期間 : 161-180
出自/相関 : ハドリアヌスの後継者。
治世 :
‣義弟のルキウス・ウェルスと共に登位した。(共治帝制)
‣164年頃、ローマ帝国の人口は6130万人(東方ギリシア語圏2310万人、西方ラテン語圏3820万人)だった。同時期の後漢の人口も約6000万人だった。
‣パルティアの侵攻に対し、ウェルスを派遣し撃退するも、ウェルスが天然痘を持ち込み、帝国全土で疫病が蔓延し、168年には多くの都市で多数の犠牲者をだした。
‣非嫡出子の出生登録簿への記載を認めた。
ゲルマン人の侵攻を撃退した。
‣マルコマンニ戦争でマルコマンニ族をはじめとする蛮族の侵攻を撃退した。
‣175年頃、マルコマンニ族の帝国への定住を行った。
‣『自省録』を執筆した。
‣177年-178年、剣闘士の報酬の上限(最高ランクの剣闘士15000セステルティウス、最低ランクの剣闘士1000セステルティウス)と試合の費用の上限(20万セステルティウス)を法で定めた。参考として、400セステルティウスがあれば、家族4人が1年間なんとか生活することができた。また、当時の葬儀代の平均は300セステルティウス前後だった。
アントニヌス・ピウスの娘である妻ファウスティナとの息子コンモドゥスを後継者に指名した。

 

コンモドゥス

在位期間 : 180-192
出自/相関 : マルクス・アウレリウス・アントニヌスの六男。
治世 : 
‣クワディ族やマルコマンニ族を撃退した。
‣最初の3年は父がつけた顧問団によって、政治体制や統治の精神は維持された。
‣実姉ルキッラによる暗殺未遂以降、身内や元老院と距離を置き、恐怖政治を行った。
‣国務を側近のペレンニスに任せていたが、彼のやりかたに不満を抱いていたブリタニア軍の抗議に屈し、彼を処刑した。奴隷出身のクレアンデルがペレンニスの後継者になった。クレアンデルは、執政官、貴族、元老院などの地位を公売にかけ、巨万の富を築いた。
‣自ら剣闘士となり、「セクトル」の役を735回演じた。また、剣闘士の共同基金から法外な年金を受け取った。
‣愛妾マルキア侍従長エレクトゥス、近衛隊長官ラエトゥスに暗殺された。

 

⑱ ペナルティナクス

在位期間 : 193-193
出自/相関 :
治世 :
‣近衛隊に暗殺された。

 

⑲ ディディウス・ユリアヌス

在位期間 : 193-193
出自/相関 : 近衛隊が帝位を競売にかけ、ユリアヌス帝が競り落とし、即位した。
治世 :
ブリタニア総督クロディウス・アルビヌス、シリア総督ペスケンニウス・ニゲル、上パンノニア総督セプティミウス・セウェルなど、各地の総督が異を唱えて蜂起。近衛隊によって暗殺された。

 

⑳ セプティミウス・セウェルス

在位期間 : 193-211
出自/相関 : アフリカ属州 (カルタゴ) 出身。191年から193年まで上パンノニアの総督を務めた。アルビヌスと手を結び、ニゲルをイッススの戦いで破り、後ろ盾のパルティア帝国も抑え込んだ。その後、アルビヌスとの約束を反故すると、息子のカラカラを副帝にし、激怒したアルビヌスをルグドゥヌムの戦いで破った。
治世 :
‣既存の近衛隊を解体し、イタリアではなく、辺境属州の各軍隊から戦士たちを選抜し、4倍の規模の近衛隊を創設した。
‣軍人の給与増額、退役兵特権の保護、現役兵の結婚の容認などを行ったが、それにより軍人たちの軟弱化を引き起こした。
‣武威を背景に、元老院を軽視した強権政治を行った。
‣イタリア本土を特別視しなかった。この時代になると、帝国全体が一様に考えられていた。帝座、帝都、イタリア本土の特権などに関する伝統的な価値観は薄らいでいた。
‣女性同士の剣闘士の試合を禁止した。
‣194-198年の第七次パルティア戦争でアルサケス朝パルティアと戦い、クテシフォンを占領するも、補給部隊を攻撃され、撤退に追い込まれた。
‣遠征先のブリタニアで没した。

 

㉑ ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス (カラカラ) 

在位期間 : 209-217
出自/相関 : セプティミウス・セウェルスの息子。実弟のゲタと共治帝として即位したが、彼を暗殺し、単独皇帝となった。
治世 :
‣ゲタの死を悼んだ2万人以上の人々を殺したり、過酷な税を取り立てるなど、恐怖政治を行った。
‣市民からの支持を集めるために大浴場を造った。(カラカラ浴場)
‣パルティ遠征中、近衛隊長官マクリヌスに謀殺された。

 

㉒ マクリヌス

在位期間 : 217-218
出自/相関 :
治世 :
‣軍の不満を買い、捕らえられ暗殺された。

 

㉓ マルクス・アウレリウス・アントニヌスアウグストゥス (エラガバルス)

在位期間 : 218-222
出自/相関 : シリア出身。セプティミウス・セウェルスの遠戚。東方の太陽神エラガバルスの神官の役を果たした。
治世 :
‣異国風の儀式の取り入れた。
‣女装癖があった。
元老院にも軍隊にも見放され、母親と共に暗殺された。

 

㉔ アレクサンデル・セウェルス

在位期間 : 222-235 (即位時14歳)
出自/相関 : エラガバルスの従弟。
治世 :
ゲルマニアに侵入した蛮族に対し、母親の助言に従い、賠償金を払い和解を目指した。
226年、アレクサンデル水道を建設した。
‣230年、ササン朝ペルシャのアルデシール1世の侵入を許した。
・母親と共に暗殺された。

 

㉕ マクシミヌス

在位期間 : 235-238
出自/相関 : 属州トラキア出身。
治世 :
ゲルマン人制圧のため、辺境にとどまり軍と共に移動し、軍陣から勅令を発した。
‣ローマに赴くことがなかった皇帝に対し、元老院はアフリカ属州総督ゴルディアヌス1世を皇帝に推した。マクシミヌスは近衛隊によって暗殺された。

 

㉖ ゴルディアヌス1世

在位期間 : 238-238
出自/相関 :
治世 :
‣マクシミヌス配下の攻撃を受け、共同帝であった息子ゴルディアヌス2世に共に暗殺された。

 

㉗ バルビヌス

在位期間 : 238-238
出自/相関 : 元老院によって、プピエヌスと共に共同帝に推戴された。
治世 :
‣近衛隊によってプピエヌス共々暗殺された。

 

㉘ ゴルディアヌス3世

即位期間 : 238-244
出自/相関 : バルビヌス&プピエヌス治世の副帝で、ゴルディアヌス2世の息子。
治世 :
‣施政は近衛隊長官のミシテウスによって行われた。
‣241年、ササン朝ペルシャのシャープ―ル1世の侵入を撃退した。
‣244年ミシケの戦いでササン朝ペルシャのシャープール1世を破った。 
‣ミシテウスの後任のフィリップスの策謀による食糧不足に怒った軍によって暗殺された。

 

㉙ ピリップス

在位期間 : 244-249
出自/相関 : シリア属州ダマスクス出身。
治世 :
ローマ帝国建国1000年を記念した大規模なイベントをローマで開催した。
パンノニア総督デキウスに敗れ、暗殺された。

 

コンスタンティヌス

在位期間 :
治世 :
‣325年、剣闘士支配を禁止する法を初めて出した。

 

To be continued