ローマ史参考文献

ローマ帝国研究会の投稿は以下の参考文献をもとに作成されています。
ウィキペディアを参考にしている箇所もあります。

 

ローマ史関連

・『ローマ建国史ティトゥス・リウィウス
・『年代記コルネリウスタキトゥス
・『ローマ人の物語塩野七生
・『ローマ帝国衰亡史』エドワード・ギボン
・『はじめて読む人のローマ史 1200年』本村凌二

 

ローマ社会、文化関連

・『古代ローマの生活』樋脇博敏
・『古代ローマ 饗宴と格差の作法』祝田秀全
・『一日古代ローマ人金森誠也
・『ローマ帝国下の穀物供給 Cura annonae について』藤澤明寛 (論文)

 

パンノニア、アクインクム関連

・『ハンガリーローマ帝国--ブダペスト市内のローマ遺跡について』南川高志 (論文)
・『二つの闘技場を持つ町--カルヌントゥムとアクインクム』佐野光宜 (論文)
・『ARCHAEOLOGICAL MONUMENTS FROM THE ROMAN PERIOD IN BUDAPEST WALKS AROUND ROMAN BUDAPEST』Aquincum Museum
・『THE CIVILIAN TOWN AT AQUINCUM GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL PARK AT AQUINCUM』Aquincum Museum

 

帝政ローマ人物事典

ユリウス=クラウディウス朝 (➀‐⑤)

オクタウィアヌス (アウグストゥス

在位期間 : BC27-14
出自/相関/経歴 :
‣母親はカエサルの姪。
‣病弱で軍才もなかったが、カエサルの戦争に従軍し、後にカエサルに後継者として指名された。
‣BC45年、カエサルの計らいでマルクス・ウィプサニウス・アグリッパと知り合い、以降、アグリッパは盟友かつ腹心としてオクタウィアヌスを支えた。アグリッパはBC20年頃にはじめて公立の公衆浴場(テルマエ)を建設させた。
カエサル暗殺後は彼の後継者候補として民衆や軍の支持を集めると、カエサルと共に執政官であり、同じく彼の後継者の地位を狙うマルクス・アントニウスと対峙するようになる。しかしながら、アントニウスよりも元老院と激しく対峙するようになったことから、自身配下のケントゥリオをローマに派遣し、BC43年の執政官特権を委託することとアントニウスを「国家の敵」として断罪することを破棄するよう要請した。元老院がこれを拒否すると、オクタウィアヌスは8個軍団を率いてローマに進軍し、ローマに入城した彼は、親戚であるクィントゥス・ペディウスと執政官に選ばれた。
‣BC43年、アントニウスカエサル支持派のマルクス・アエミリウス・レピドゥスと第2回三頭政治を行い、元老院派の議員や騎士を大量に粛清した。
‣BC42年、元老院カエサルの神格化を決定したことで、オクタウィアヌスは「神君の子」として元老院での影響を強めた。一方アントニウスは、オクタウィアヌスの影響を恐れてカエサルの神格化に反対したが、このためにローマ市民やカエサル配下の退役兵からの支持を失うことになった。以降、2人は明確に敵対するようになった。
‣BC36年、戦果を挙げることでオクタウィアヌスよりも優位に立つことを目論んだアントニウスはパルティアに遠征する(第二次パルティア戦争)も失敗した。この際、後背地としてプトレマイオス朝エジプトを欲し、カエサルの元愛人でプトレマイオス15世(カエサルとの子)の母であったクレオパトラ7世と親密になった。その後、ローマ人の妻と離縁し、アントニウスは彼女と結婚した。アントニウスは、ローマを裏切ってパルティアへ味方したアルメニア王国を攻撃し、国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。そしてその凱旋式をローマではなくアレクサンドリアで挙行した。それらに加えて、死後自らの支配領土をクレオパトラや息子らへ分割することを書いた遺言状の内容をアウグストゥスに公開され、アントニウスはローマ社会で孤立した。
‣BC33年、オクタウィアヌスプトレマイオス朝に宣戦布告し、翌年、アクティウムの海戦で破った。アントニウスクレオパトラは自害した。
‣BC27年、オクタウィアヌス元老院で全特権を返上し共和政への復帰を宣言した。元老院は驚喜したが、実際にはこのとき放棄した特権とは、三頭政治権などの内戦時の非常大権であった。これらはすでに有名無実化しているものばかりであり、執政官職は放棄しなかった。しかし、元老院はそのことに気づかず、平和が回復するまで属州の防衛も依頼する。これに対しオクタウィアヌスは、比較的安全な地域と軍団駐屯の必要のある国境地域とに分け、前者を元老院が総督を選出できる元老院属州、後者を軍団総司令官であるオクタウィアヌス自身が総督兼軍団指揮官の任命権を持つ皇帝属州とする提案で返した。オクタウィアヌスは軍団指揮と属州統治を行うためにプロコンスル命令権を元老院から取り付けた。その結果、ローマ全軍の一元管理が可能となり、オクタウィアヌスは名実共に皇帝となった。
‣共和制復帰宣言から3日後、カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、オクタウィアヌスアウグストゥスの称号を贈ることを提案し、元老院は満場一致でこれを受け入れた。オクタウィアヌスは数度にわたり辞退した上でこれを承諾したが、あくまでも元老院の代表であるプリンケプスと自称し、元老院の1人としてふるまった。しかし、実態は帝政であるため、この体制を元首政と呼んだ。
治世 :
‣25軍団の常備軍を創設した。
‣解放された奴隷(被解放自由民)は前科がなく、5歳以上の子供を持ち、3万セステルティウス以上の資産をもてば、ローマ市民になることができたため、人の身分規定が困難になっていたことを受け、奴隷解放の条件の厳格化(奴隷解放規制法)を進め、4人以上100人までの奴隷の所有者が解放できるのは奴隷の2分の1まで、100人から500人までの所有者が解放できるのは5分の1まで、3人以下の奴隷所有者は規制外と定めた。また、20歳以上のローマ市民にのみ正式に奴隷解放することを認めた。
‣出生届を制度化した。親が子供の出生後30日以内に当局に申請を行い、当局はその申告に基づいて、特段の調査もなく、出生の事実を出生登録簿に記載し、求められればその写しを交付していた。非嫡出子の記載は認められておらず、非嫡出子の親は私的に証人立会文書を作成した。ただし、いずれも親の意思に任されていたため、登録されていない子供もおり、裁判の際に不利になった。
奴隷解放税と相続税を導入した。
‣人口が密集したローマでは2階建から最高7階建てのアパート(インスラ)が出現した。ただし、木や脆いレンガで建築されため上層階にいくほど家賃は安かった。崩落や落下物による事故があったため、建物の高さを20メートル以下に制限した。一方、金持ちは一戸建て(ドムス)で暮らした。
元老院家系および騎士家系の者が剣闘士になることを禁じた。
元老院家系の者と俳優の結婚を禁じた。
‣ローマの幹線道路(ローマの道)の要所に宿泊施設と乗り継ぎ用の馬を備えた公共郵便制度を導入した。ただし、これは原則として公務での使用のみ使うことができ、庶民は飛脚を雇うか、手紙の宛先に行く人に託した。
‣理容師が髭剃り時に客の顔に切り傷を負わせた場合の罰金と処罰を定めた。
‣公式行事でのラケルナの着用を禁じた。
‣BC19年、祖父、父、または夫が貴族階級以上である全ての女性の売春行為を禁じた。
‣BC18年、ユリウス法を制定し、既婚男性は相手が既婚女性でない限り、妻以外の女性と肉体関係を持つことが認められた。既婚女性は、夫以外の男性と肉体関係を持つことが禁じられ、姦通現場を押さえることができたら、妻の父は娘と相手男性をその場で殺害できた。夫は彼女と離婚しなければならず、応じないと姦通に手を貸した罪で夫も裁かれた。姦通で有罪になった場合、男女はともにローマから追放されたうえに結婚を禁じられ、女性の財産の3分の1と男性の財産の2分の1が没収された。
‣BC11年、水道庁を創設し、水道長官の管轄下で、専門技師や240名の国有奴隷団を水道管理にあたらせた。
‣BC2年、アルシエティヌス水道を建設した。
‣BC2年、穀物配給量を抑制するために、受給資格を厳格化し、17歳以上の成人ローマ市民男性で、ローマ在住で、元々ローマ人であることを条件にした。その結果、受給者数は15万人から20万人の間で推移していった。また、食料供給長官職を設けた。
‣北東部の国境付近で外民族の帝国内定住を認めた。
コンスルのガイウス・アシニウス・ポッリオ に命じて、ローマ最初の公立図書館を造らせた。また、他に2つの図書館も建設した。
‣9年のトイトブルク森の戦いでゲルマン族に敗れた。
‣9年、パピウス・ポッパエウス法を制定し、20歳から50歳までの女性と25歳から60歳までの男性の結婚を義務化した。ただし、元老院家系の男性の女優、売春婦、女衒などとの結婚、女性の兵役中の兵士との結婚、属州役人の在地女性との結婚、後見人の被後見人との結婚は禁じた。また、寡婦の場合は1年、離婚した女性は6か月以内の再婚を求めた。加えて、独身者や子のない夫婦には相続や贈与で不利になるような罰則を定めた。その一方で、3人以上子をもうけた生来自由人の女性、4人以上子をもうけた被解放自由人の女性、5人以上子をもうけた属州民の女性を後見人から解放することを定めるなど、子だくさんの親には様々な特権を与えた。男性は14歳で成人した後は、未成熟者の後見人という成人男性市民から解放されたが、女性は12歳で成人した後は「婦女の後見人」という別の成人男性市民が後見人となり、土地や奴隷の売却や遺言を書いたり、契約を結ぶときはこの後見人の同意が必要であった。夫は後見人になれなかった。
‣14年頃、ローマ帝国の人口は4550万人(東方ギリシア語圏2040万人、西方ラテン語圏2510万人)だった。ローマの人口は約80万人で、約50万人のアレクサンドリアを抜いて最大都市になった。イタリア半島の全人口の約10%がローマに住んでいた。
‣直系の嫡子に恵まれなかったアウグストゥスは、3番目の妻リウィアの連れ子であったティベリウスを、先妻との間の娘ユリアを娶わせて養子とし、帝座に就かせた。

 

ティベリウス 

在位期間 : 14-37 (即位時55歳)
出自/相関/経歴 :
‣母リウィアがオクタウィアヌスと再婚したため、オクタウィアヌスに引き取られ養育された。
治世 :
アウグストゥスが築いた帝政の定着に務めた。
‣14年、ウィセッリウス法を制定し、元奴隷が名誉ある役職を求めることを禁じた。
‣官職選挙の場を市民集会から元老院に移すなど、元老院と協力し、帝国の安定を図ったが、元老院の体たらくに失望し、後年カプリ島に引き籠ることになった。
‣皇帝主催の戦車競技会や剣闘士の試合を中止する等の財政引き締め政策を執り、財政健全化を行ったが、民衆や元老院からの反感を買った。
元老院家系および騎士家系の者が剣闘士になることを禁じた。また、裁判で有罪になった奴隷を除き、奴隷を剣闘士にするために売ることも禁じた。
‣属州整備に務め、パンノニアでは多くのインフラ整備を行った。
アウグストゥスの時代から対立していたゲルマニアに対し、エルベ川進出に見切りをつけライン川およびドナウ川において防衛線を確立した。
‣パルティアに対して、ゲルマニア戦線の総司令官だったゲルマニクスを派遣して、東方問題の原因となっていたアルメニアの王位継承問題を解決し、東方の安全保障を確立した。
‣盗賊の取締りなど国内治安にも力を注いだ。
‣19年、ユニウス・ノルバヌス法を制定し、30歳未満や不正な手続きで解放された奴隷はローマ人ではなく、ユニウス・ラテン人となることが定められた。ユニウス・ラテン人はローマ法の保護のもとで財産を所有したり、契約を結んだりできるラテン権が与えられたラテン人と同等の権利が認められていたが、ラテン人と異なり、遺言を作成する権利が認められなかったため、自身の遺産を自分の望む相続人に遺せず、その財産はかつて奴隷として仕えた主人のものとなった。
‣親衛隊長セイアヌスとその一族をクーデター未遂などで粛清した。その時にセイアヌスが息子小ドルススを毒殺したことが分かった。

 

➂ ガイウス・ゲルマニクス (カリグラ)

在位期間 : 37-41
出自/相関/経歴 :
アウグストゥスの娘ユリアと腹心アグリッパの子供、大アグリッピナとゲルマニクスの子供。
‣父の死後、カリグラは母アグリッピナの元で暮らしたが、やがて彼女はティベリウスとの関係が悪化したため追放された。アグリッピナの新しい夫となる人物が自分の地位を脅かす存在となることを恐れたティベリウスは、彼女が再婚することを禁じた。
‣31年、カリグラはカプリ島に移ったティベリウスに引き取られ、そこでティベリウスの個人的庇護を受けながら6年間生活を共にした。
‣33年、財務官に就任した。
‣35年、ティベリウスの孫のティベリウス・ゲメッルスとの共同皇帝として帝位後継者に指名された。
治世 :
‣37年3月、皇帝に就任した。ティベリウス治世が極めて不人気であったため、カリグラの皇帝就任は民衆から歓迎された。なお、アウグストゥスは自身の後継者に直系の子孫を望んでいたが、結果的に直系ではないティベリウスが就任することになった。一方、カリグラは直系の子孫であった。この事実もティベリウスの不人気とカリグラの人気に拍車をかけた。
‣プラエトリアニや都市部の兵士のみならず、イタリア国外の軍まで含めた軍隊の兵士たちに賞与を支給した。
ティベリウスによって作成された反逆罪に関する書類を破棄し、追放された者たちの帰国を許した。
‣帝国の税制によって生活が逼迫した人々を保護した。
‣剣闘士による試合を復活させた。
‣同年10月、重病にかかった。
公的資金の収支を公表した。
‣火災によって資産を失った人々を助けるため、いくらかの税金を免除し、公共競技大会に賞金を設けた。
政務官選挙を民衆選挙に戻した。
‣38年、クラウディウス水道と新アニオ水道の建設に着手した。
‣39年、帝国に深刻な財政危機が生じた。
‣レギウムおよびシチリアの港湾開発を行った。これによりエジプトから穀物の輸入が増え、飢饉対策となった。
アウグストゥスの神殿とポンペイの劇場を完成させ、サエプタ・ユリア近郊に円形劇場の建設を開始した。
‣クラウディア水道と新アニオ水道の建設に着工した。
‣当時最大規模の巨大な船を2艘作らせた。どちらも沈没したが、ネミ湖の底から発見された。1929年から1932年にかけて湖底から引き上げられたが、第二次世界大戦中の戦災によって焼失した。
‣39年以降、元老院との対立が激しくなった。
‣プトレマエウスによって統治されていたローマの同盟国であったマウレタニアの王を処刑し、マウレタニアをローマ帝国に併合し、2つの州に分割した。
‣40年以降、公に姿を現すときに神々の姿に扮装し、自身の政治的役割に宗教を持ち込み、自己の神格化を図るようになった。
‣将校で、カリグラ治世では護民官であったカシウス・カエレアらに暗殺された。

 

クラウディウス

在位期間 : 41-54
出自/相関 : カリグラの叔父。
治世 :
‣奴隷が病気になったら、治療の責任は所有者にあることを定めた。また、病院に奴隷を置き捨てると、回復した後にその奴隷の所有権を主張することは許されず、殺してしまったときには自由民に対する殺人罪と同様の刑罰を科すことも定めた。
‣47年、働けなくなってアエスクラピウス島に捨てられた奴隷は全て自由身分とする告示を出した。
‣50年、スエビ族のパンノニアへの定住を認めた。
‣52年、クラウディウス水道と新アニオ水道を完成させた。
‣有能な解放奴隷を国政に徴用した。
‣水道庁の組織を拡充し、実務を担当する水道管理官のポストを水道長官の下に置き、460名の国有奴隷団を追加した。
‣三親等の結婚を合法化した。
‣弁護士の報酬を1万セステルティウス以下と定めた。
‣属州経営に意を注いだ。
‣最後の妻である姪の小アグリッピナに暗殺された。

 

⑤ ネロ

在位期間 : 54-68 (即位時17歳)
出自/相関/経歴 :
‣カリグラの妹、小アグリッピナとクラウディウス帝の子供。
クラウディウス帝の後は、クラウディウス帝と3番目の妻メッサリナの息子であるブリタンニクスが皇帝になることが有力であったが、クラウディウス帝の側近パッラスや小アグリッピナにより、ブリタンニクスの姉オクタウィアとネロとの婚姻が成立すると、ブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そして年少のブリタンニクスよりも後継者に相応しいとさえ見られるようになり、ブリタンニクスより先に即位する確約を得た。
治世 :
ギリシアで開催されたオリンピア祭の戦車競走に出場し、最下位だったものの、審判がネロの優勝を宣言した。その判断に喜んだネロ帝はギリシア人の貢納金を免除した。
‣アフリカ属州の半分を所有していた6人の地主に「遺産をすべて皇帝に遺贈する」と遺言書を書かせ、殺害した。また、死刑囚にも同様に財産の遺贈をさせようとした。これに反対してセネカは失脚させられた。
‣解放奴隷のドリュフォルスと去勢させ女装させたスポルスの2人の男性と法的な儀式を経て結婚した。
‣母、小アグリッピナの干渉を疎ましく思ったネロは母親と疎遠になっていった。それにより、小アグリッピナはブリタンニクスに接近した。55年、13歳のブリタンニクスを毒殺した。
‣59年、母親を殺し、妻も追放して処刑した。
‣59年、「青年祭」を開催し、60年から5年に一度に「ネロ祭」を開催した。戦車競走のほかにスポーツや音楽の腕を競わせた。
‣59年、ポンペイ円形闘技場で興奮したポンペイの住民とヌケリアの住民との間で乱闘が起き、以後、10年間、競技大会の開催を禁止した。
‣64年のローマの大火(ネロ帝が放火した可能性は極めて低い)で、キリスト教信者に放火犯の触れ衣をきせ、迫害した。キリストに従った十二使徒のリーダーのペトロはこのときに逆さ十字架にかけられた。
‣大火の教訓を生かし、建物の高さを17.75以下に制限する、各戸はそれぞれ壁で囲む、集合住宅には中庭を設ける、消火用の器具を設置する、住居の一定部分を耐火性のある石で造るなどの規則を定めた。
‣64年、貨幣改鋳を行い、アウレウス金貨を7.8グラムから7.3グラムに減らし、デナリウス銀貨を3.9グラムから3.41グラムに減らした上、デナリウスの銀の含有量を100パーセントから92パーセントに低下させた。
‣64年、ドムス・アウレアという黄金の宮殿を建設した。
ポンペイウス劇場で独唱会を2回開いた。1回目は地震に見舞われ、観客が避難してしまったため、2回目(65年)は出入り口を封鎖し、観客はいかなる理由があろうと席を立つことが許されなかった。そのため、一部の観客は産気づいたふりをするなどして会場から脱出しようとした。残った観客は兵士により拍手を強要され、しない場合はむちで打たれた。親友で後に皇帝となるウェスパシアヌスは独唱会中に居眠りをしたため絶交した。
‣66年、ユダヤ戦争でユダヤ属州民と戦った。
‣68年、ガリア・ルグドゥネンシス総督のガイウス・ユリウス・ウィンデクスが反乱を起こすも、上ゲルマニア総督のルキウス・ウェルギニウス・ルフスが鎮圧した。
‣68年、元老院の支持を得た軍隊に迫られ、自害した。

 

四皇帝内乱時代 (⑥-⑨)

⑥ ガルバ

在位期間 : 68-69
出自/相関/経歴 : ヒスパニア・タラコネンシスの属州総督(60-68)で、近衛隊の推戴で即位。
治世 :
‣帝国の財政の再建のために支出を抑えようとし就任時の賜金の支給や褒賞を怠ったため兵士らの恨みを買った。
‣69年、ゲルマニア・スペリオル(上ゲルマニア属州)の2軍団が皇帝への忠誠宣誓を拒んだ。また、ゲルマニア・インフェリオル(下ゲルマニア)でも反乱がおき、駐在していた軍隊はゲルマニア・インフェリオル総督アウルス・ウィテッリウスをガルバにかわり皇帝に擁立するよう要求した。そのため、ガルバは元老院議員の支持を得るため、親戚のオトーではなく、ローマの貴族ルキウス・カルプルニウス・ピソ・リキニアヌスを後継者に選んだ。そのため、オト―は、皇帝就任時に恩賞支給を受けられず不満を持つプラエトリアニとガルバとピソの父子を殺害し、帝位についた。

 

⑦ オト―

在位期間 : 69年1月15日ー69年4月15日
出自/相関/経歴 : ネロの親友で、若い頃からの遊び仲間であった。ポッパエア・サビナの夫であったが、58年にネロがポッパエアとの結婚を望んだため離婚した。同年、ネロはオトーをルシタニア総督とし、ローマから遠ざけた。オト―は総督として熱心に仕事に打ち込み経験を積んだ。
治世 :
‣ガルバを暗殺し帝位につくも、アウルス・ウィテッリウスはこれを認めず、挙兵しローマに迫った。オトーはウィテッリウスに対抗を図ったものの、オトーの軍は敗れ(ベドリアクムの戦い)、敗戦の報を受けたオトは自殺した。

 

⑧ ウィテリウス

在位期間 : 69-69
出自/相関/経歴 :
‣68年、ガルバによってゲルマニア・インフェリオル軍団司令官として派遣されると、財政支出を抑えようとしていたガルバと異なり、その気前の良さから兵士らの間で人気になった。
‣兵士らの指示を得てオトーを破り、皇帝に即位した。
治世 :
‣軍団に御輿として担がれただけの皇帝であったため、帝位を得た後の政策について明確な方針がなかった。そのため、新たに定めた法律などは1つもなく、贅沢三昧の日々を送り、剣闘士や野獣の試合を好み連日、豪華な食事でわずか数ヶ月で9億セステルティウス(約2250億円)を費やした。(その大半は食費だった)
ゲルマニア軍団の軍紀が乱れていることと、オトー軍幹部を処刑したことで市民の支持をなくした。
‣69年、ウィテッリウス軍は、ウェスパシアヌス側に付いた軍人マルクス・アントニウス・プリムス率いるモエシア・パンノニア方面軍にベドリアクムの戦いで敗戦を喫した。 プリムスの軍はローマに進軍し、ウィテッリウスは家族とともにパラティヌスに逃げ込むが、捕らえられて無残な最期を遂げた。

 

フラウィウス朝 (⑨-⑪)

ウェスパシアヌス

在位期間 : 69-79 (即位時60歳)
出自/相関/経歴 :
アシア属州の徴税請負人の父と騎士階級身分の母との間に生まれた。
‣62年、アフリカ属州に前執政官として赴任した。
‣66年にユダヤ戦争が起こると、軍司令官として同地に派遣され、息子のティトゥスと共に反乱を鎮圧した。
‣シリア、エジプト、ユダヤ属州の支持を集めると、挙兵し、ウェテリウスを破り皇帝に即位した。
治世 :
‣秩序の回復に尽くし、皇帝の権威を取り戻した。
‣ユリウス=クラウディウス王朝の皇帝たちに与えられていたのと同じ権限をウェスパシアヌスに付与する「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」(皇帝法)を元老院に制定させた。
元老院に与えられていた皇帝弾劾権を否定した。これによって政権交代は原則的に皇帝の死によってのみ行われるようになったため、後々まで皇帝の暗殺が横行する原因となった。
‣海外から優秀な教師を招き、ローマ市内の教育施設のレベル上げを図った。10万セステルティウスの高額な年俸が教師に支払われた。
‣73年、ネロ帝の時に始まったユダヤ戦争を引き継ぎ、ユダヤ属州民に勝利した。
‣73年、調査を実施し、ローマの街路の総距離数が6万パッスス(約89万キロメートル)に及ぶことが報告された。ちなみに、当時のローマでは住所表記はなく、〇〇沿いの〇〇の近くといった具合に説明的な表現で場所が表されていた。
‣74年、集めた尿を有料で販売する公衆トイレを設置するなど国家財政の再建に努め、成功した。
‣75年、ローマのコロセウムの建設を手掛けた。
‣79年、病気で死去した。

 

ティトゥス

在位期間 : 79-81
出自/相関/経歴 :
ウェスパシアヌスの長子。
‣67年、父ウェスパシアヌスユダヤ人の反乱鎮圧のためパレスチナに向かい、財務官として同地で軍の一指揮官として勤務した。その後もユダヤ戦争の鎮圧に専念し、エルサレムを神殿もろとも破壊した。
‣79年、死去した父の後を継いで皇帝に即位した。
治世 :
‣剣闘士試合を頻繁に開催した。
ウェスパシアヌスを揶揄する喜劇が上演されても一切咎め立てしなかった。
元老院との関係は良好で、反逆罪の罪状を使わないと宣言した。
‣精力的に公務に励み、市民からの人気は高かった。
‣ヴェスヴィオ火山が噴火し、ポンペイが壊滅したほか、ローマが3日間延焼し続ける大火災が発生した。ティトゥスは精力的に被災地の救済にあたったが81年に熱病にかかり死去した。

 

ドミティアヌス

在位期間 : 81-96
出自/相関 : ティトゥス実弟
治世 :
‣財政管理や属州統治などで大きな成果をあげた。
‣去勢を禁じる勅令を発布した。
‣治世末期になると恐怖政治を行った。
‣妻や側近、軍によって暗殺された。

 

五賢帝時代 (⑫-⑯)

ネルウァ

在位期間 : 96-98 (在位時66歳)
出自/相関 :
治世 :
‣去勢を禁じる勅令を発布した。

 

トラヤヌス

在位期間 : 98-117
出自/相関 : 低ゲルマニアの軍隊を指揮していたトラヤヌスネルウァが養子とし、副帝に指名した。その後、彼を自身の後継者とした。
治世 :
‣子供を虐待した父親の父権をはく奪し、息子が先に死んだ場合もその遺産を相続することを禁じた。
‣帝国の版図を外征により最大にした。
‣建物の高さを18メートル以下に制限した。
‣109年、トラヤヌス水道を建設した。
‣ローマにウルピウス図書館を建設した。

 

ハドリアヌス

在位期間 : 117-138
出自/相関 :
治世 :
‣芸術を奨励した。
‣法律をあらため、軍紀の引き締めをはかった。
‣各属州を訪れた。
‣去勢を禁じる勅令を発布した。
‣いかなる理由があっても所有者が奴隷を殺すことを禁じ、奴隷が罪を犯した場合は公の司法機関に告訴し、裁判の結果を待つことを定めた。また、屋敷内の牢屋の設置を禁じた。さらに、奴隷が所有者を殺した場合、告白を強いる拷問は殺害現場の近くにいた奴隷だけに行うこととした。
‣公衆浴場における男女の混浴を禁止した。
‣ローマだけでなく、属州でも初等教育の充実化を図るために教師の免税を命じた。
‣貴族のアエリウス・ウエルスを養嗣子にして後継者にするつもりだったが、彼が死亡したため、アントニウス・ピウスとマルクス・アウレリウス・アントニヌスを自身の後継者にした。

 

アントニヌス・ピウス

在位期間 : 138-161
出自/相関 : ハドリアヌスの後継者。
治世 :
カレドニア南部にアントニヌス帝壁を構築した。
‣官僚制度を整備した。
‣財政を引き締め、アウグストゥス以来最高の資産を国庫に残した。
‣奴隷に対しての残酷な罰を禁じ、奴隷に対する暴行行為には自由民に対する暴行行為と同じ処罰が下されるようになった。また、主人の横暴に耐えかねた場合は、奴隷は神殿に逃げ込むことができ、その横暴が証明されると、主人はその奴隷の所有権を牛に、奴隷市場で第3者に売らなければならなくなった。

 

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

在位期間 : 161-180
出自/相関 : ハドリアヌスの後継者。
治世 :
‣義弟のルキウス・ウェルスと共に登位した。(共治帝制)
‣164年頃、ローマ帝国の人口は6130万人(東方ギリシア語圏2310万人、西方ラテン語圏3820万人)だった。同時期の後漢の人口も約6000万人だった。
‣パルティアの侵攻に対し、ウェルスを派遣し撃退するも、ウェルスが天然痘を持ち込み、帝国全土で疫病が蔓延し、168年には多くの都市で多数の犠牲者をだした。
‣非嫡出子の出生登録簿への記載を認めた。
ゲルマン人の侵攻を撃退した。
‣マルコマンニ戦争でマルコマンニ族をはじめとする蛮族の侵攻を撃退した。
‣175年頃、マルコマンニ族の帝国への定住を行った。
‣『自省録』を執筆した。
‣177年-178年、剣闘士の報酬の上限(最高ランクの剣闘士15000セステルティウス、最低ランクの剣闘士1000セステルティウス)と試合の費用の上限(20万セステルティウス)を法で定めた。参考として、400セステルティウスがあれば、家族4人が1年間なんとか生活することができた。また、当時の葬儀代の平均は300セステルティウス前後だった。
アントニヌス・ピウスの娘である妻ファウスティナとの息子コンモドゥスを後継者に指名した。

 

コンモドゥス

在位期間 : 180-192
出自/相関 : マルクス・アウレリウス・アントニヌスの六男。
治世 : 
‣クワディ族やマルコマンニ族を撃退した。
‣最初の3年は父がつけた顧問団によって、政治体制や統治の精神は維持された。
‣実姉ルキッラによる暗殺未遂以降、身内や元老院と距離を置き、恐怖政治を行った。
‣国務を側近のペレンニスに任せていたが、彼のやりかたに不満を抱いていたブリタニア軍の抗議に屈し、彼を処刑した。奴隷出身のクレアンデルがペレンニスの後継者になった。クレアンデルは、執政官、貴族、元老院などの地位を公売にかけ、巨万の富を築いた。
‣自ら剣闘士となり、「セクトル」の役を735回演じた。また、剣闘士の共同基金から法外な年金を受け取った。
‣愛妾マルキア侍従長エレクトゥス、近衛隊長官ラエトゥスに暗殺された。

 

⑱ ペナルティナクス

在位期間 : 193-193
出自/相関 :
治世 :
‣近衛隊に暗殺された。

 

⑲ ディディウス・ユリアヌス

在位期間 : 193-193
出自/相関 : 近衛隊が帝位を競売にかけ、ユリアヌス帝が競り落とし、即位した。
治世 :
ブリタニア総督クロディウス・アルビヌス、シリア総督ペスケンニウス・ニゲル、上パンノニア総督セプティミウス・セウェルなど、各地の総督が異を唱えて蜂起。近衛隊によって暗殺された。

 

⑳ セプティミウス・セウェルス

在位期間 : 193-211
出自/相関 : アフリカ属州 (カルタゴ) 出身。191年から193年まで上パンノニアの総督を務めた。アルビヌスと手を結び、ニゲルをイッススの戦いで破り、後ろ盾のパルティア帝国も抑え込んだ。その後、アルビヌスとの約束を反故すると、息子のカラカラを副帝にし、激怒したアルビヌスをルグドゥヌムの戦いで破った。
治世 :
‣既存の近衛隊を解体し、イタリアではなく、辺境属州の各軍隊から戦士たちを選抜し、4倍の規模の近衛隊を創設した。
‣軍人の給与増額、退役兵特権の保護、現役兵の結婚の容認などを行ったが、それにより軍人たちの軟弱化を引き起こした。
‣武威を背景に、元老院を軽視した強権政治を行った。
‣イタリア本土を特別視しなかった。この時代になると、帝国全体が一様に考えられていた。帝座、帝都、イタリア本土の特権などに関する伝統的な価値観は薄らいでいた。
‣女性同士の剣闘士の試合を禁止した。
‣194-198年の第七次パルティア戦争でアルサケス朝パルティアと戦い、クテシフォンを占領するも、補給部隊を攻撃され、撤退に追い込まれた。
‣遠征先のブリタニアで没した。

 

㉑ ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス (カラカラ) 

在位期間 : 209-217
出自/相関 : セプティミウス・セウェルスの息子。実弟のゲタと共治帝として即位したが、彼を暗殺し、単独皇帝となった。
治世 :
‣ゲタの死を悼んだ2万人以上の人々を殺したり、過酷な税を取り立てるなど、恐怖政治を行った。
‣市民からの支持を集めるために大浴場を造った。(カラカラ浴場)
‣パルティ遠征中、近衛隊長官マクリヌスに謀殺された。

 

㉒ マクリヌス

在位期間 : 217-218
出自/相関 :
治世 :
‣軍の不満を買い、捕らえられ暗殺された。

 

㉓ マルクス・アウレリウス・アントニヌスアウグストゥス (エラガバルス)

在位期間 : 218-222
出自/相関 : シリア出身。セプティミウス・セウェルスの遠戚。東方の太陽神エラガバルスの神官の役を果たした。
治世 :
‣異国風の儀式の取り入れた。
‣女装癖があった。
元老院にも軍隊にも見放され、母親と共に暗殺された。

 

㉔ アレクサンデル・セウェルス

在位期間 : 222-235 (即位時14歳)
出自/相関 : エラガバルスの従弟。
治世 :
ゲルマニアに侵入した蛮族に対し、母親の助言に従い、賠償金を払い和解を目指した。
226年、アレクサンデル水道を建設した。
‣230年、ササン朝ペルシャのアルデシール1世の侵入を許した。
・母親と共に暗殺された。

 

㉕ マクシミヌス

在位期間 : 235-238
出自/相関 : 属州トラキア出身。
治世 :
ゲルマン人制圧のため、辺境にとどまり軍と共に移動し、軍陣から勅令を発した。
‣ローマに赴くことがなかった皇帝に対し、元老院はアフリカ属州総督ゴルディアヌス1世を皇帝に推した。マクシミヌスは近衛隊によって暗殺された。

 

㉖ ゴルディアヌス1世

在位期間 : 238-238
出自/相関 :
治世 :
‣マクシミヌス配下の攻撃を受け、共同帝であった息子ゴルディアヌス2世に共に暗殺された。

 

㉗ バルビヌス

在位期間 : 238-238
出自/相関 : 元老院によって、プピエヌスと共に共同帝に推戴された。
治世 :
‣近衛隊によってプピエヌス共々暗殺された。

 

㉘ ゴルディアヌス3世

即位期間 : 238-244
出自/相関 : バルビヌス&プピエヌス治世の副帝で、ゴルディアヌス2世の息子。
治世 :
‣施政は近衛隊長官のミシテウスによって行われた。
‣241年、ササン朝ペルシャのシャープ―ル1世の侵入を撃退した。
‣244年ミシケの戦いでササン朝ペルシャのシャープール1世を破った。 
‣ミシテウスの後任のフィリップスの策謀による食糧不足に怒った軍によって暗殺された。

 

㉙ ピリップス

在位期間 : 244-249
出自/相関 : シリア属州ダマスクス出身。
治世 :
ローマ帝国建国1000年を記念した大規模なイベントをローマで開催した。
パンノニア総督デキウスに敗れ、暗殺された。

 

コンスタンティヌス

在位期間 :
治世 :
‣325年、剣闘士支配を禁止する法を初めて出した。

 

To be continued

共和政ローマ人物事典

➀ ルキニウス・ユニウス・ブルータス

在任期間 : BC509 (執政官)
出自/相関 : ルクレツィアの夫の友人で、タルクィニウスの甥。
治世 :
‣執政官制度を創設した。
元老院議員の数を300人に増やした。
‣王政から家長制共和政になり、自身の出世の機会が失われたことに不満を持ったブルータスの息子らがタルクィニウスを王に戻す王政復古クーデターを計画した。奴隷の密告で事前にクーデターを知ったブルータスは息子らを処刑した。
‣王政復古を諦めないタルクィニウスがエトルリアの諸都市と手を組みローマに侵攻した。ブルータスは騎兵部隊を、共同執政官のウァレリウスは歩兵部隊を率いて迎え撃った。ブルータスはエトルリア軍の騎兵隊指揮官でタルクィニウスの長男アルンテスと相撃ちの形で戦死した。戦いはその後、エトルリア軍の撤退で幕を閉じた。(シルウァ・アルシアの戦い)

 

➁ プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ

在任期間 : BC509, BC508, BC507, BC504 (執政官)
出自/相関 : ルクレツィアの父親の友人。サビーニ人。
治世 :
‣BC509年はブルータス、ルクレティウス(ルクレツィアの父親)、ホラティウスと執政官のタッグを組んだ。ルクレティウスは老衰で亡くなり、ホラティウスは任期満了で執政官を降りた。
‣シルウァ・アルシアの戦いで歩兵部隊を率いて勝利し、ローマに凱旋した。
‣自身に対する民衆の不満を和らげるため、フォロ・ロマーノの丘の上に立つ豪華な自宅を壊し、ローマ城壁近くの地に建てた質素な家に引っ越し、出入り口は常に開けていた。
‣様々な法律を制定した。
1) 王の管理下にあった国庫を財務官が管理する。
2) 司法官の下した判決に対して、ローマ市民権を有する者は、市民集会へ控訴できる。(ウァレリウス法)
3) クーデターを企てた人物を殺しても、証拠があれば殺人を犯した者は罪に問われない。
エトルリア人たちの他国への流出により、国力が著しく低下した。それに伴い、近隣諸国との戦闘が増えていった。
‣オスティアの塩田でとれる塩の販売を個人から国家に移した。それによる商人たちの補償として彼らに課される間接税を減税した。そのことで、通商を新たに生業とする者たちが現れた。
‣他国人のローマ移住を積極的に受け入れた。
‣シルウァ・アルシアの戦いで敗れたタルクィニウスはエトルリア連邦に属するクルシウムの王ポルセンナを頼り、ポルセンナはローマに進軍し、ローマを包囲した。ローマのムキウスが敵陣に侵入し、ポルセンナの暗殺を試みるも失敗し、捕虜となった。自身を拷問にかけようとするポルセンナに対し、ムキウスは自ら自分の右手をろうそくで燃やした。この行動に感動したポルセンナはムキウスを釈放し、ローマにタルクィニウスの王位復帰とシルウァ・アルシアの戦いで獲得したウェイイの領土返還の条件付き和平を申し込んだ。ローマは後者のみ受け入れ、ポルセンナは了承した。

 

マルクス・フリウス・カミッルス

在任期間 : BC401, BC398, BC394, BC386, BC384, BC381年 (執政武官)
BC396, BC390, BC389, BC368, BC367 (独裁官)
治世 :
‣BC396年、エトルリア人の街ウェイイを攻略した。平民たちはウェイイをローマと並ぶ第2の首都にすることを提案したが、カミッルスは「ローマを捨てることはローマの神々を捨てることであり、ローマを離れればローマ市民ではなくなる」と反対した。そのため、平民たちはカミッルスを告発し、カミッルスはローマを自ら離れた。しかし、BC387年、ケルト人がローマを襲撃し、ローマを壊滅寸前まで追い込んだ。(アッシリアの戦い) ローマは身代金をケルト人に払い、撤退してもらったことで終戦した。その後、ローマ人たちは都市再建のためにカミッルスを呼び戻した。平民たちはローマを離れウェイイに移住しようとしたことがケルト人襲来を招いたと信じ、以降ウェイイの第2首都化を望まなくなった。

 

ティベリウス・センプロニウス・グラックス

在任期間 : BC215, BC213 (執政官)
治世 :
‣BC215年、ガイウス・オッピウスが護民官に就任した。彼はオッピウス法を制定し、女性の戦時下(第二次ポエニ戦争)の贅沢を厳しく制限し、半オンス以上の黄金の所持、多色の服装、二頭立て馬車の乗車などを禁止した。

 

クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクス

在任期間 : BC123 (執政官)
治世 :

‣BC123年、グラックス兄弟の弟、ガイウス・グラックス護民官に就任し、穀物法を制定し、国家が穀物を低価格で安定的に国民に供給できるようにした。

 

ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス

在任期間 : BC58 (執政官)
治世 :
‣BC58年、プブリウス・クロディウス・プルケルが護民官に就任し、穀物を無料で首都住民に配給する法律(Lex Clodia frumentaria)を制定した。

 

To be continued

ローマ帝国軍事用語集

1) レギオ (Legio)

ローマの正規部隊。
ローマ市民権を持つ者だけで構成された。
時代によっても異なるが、帝政ローマ時代では1つの軍団は10のコホルス(大隊)から構成され、騎兵200強を含めたおよそ5000から6000人の軍団兵がいた。
通常、1コホルス(Cohors)は3マニプルス(歩兵中隊)、1マニプルス(Manipulus)は2ケントゥリア(百人隊)から構成されていたので、1コホルスはすなわち6ケントゥリア(Centuria)から構成されていた。なお各レギオの第1コホルスは名誉ある部隊とされ、通常の2倍の兵力で構成された。 1コホルスの人員は時代によって異なり、マリウスの軍制改革以後では定員600人ほどという計算になるが、実際には定員割れを起こしていることが多かったとされる。のちにアウグストゥスの治世では450人となった。
コホルスの指揮は上位のケントゥリオが担い、下位のケントゥリオに命令を下した。またコホルスの中でも第1コホルスの指揮は「プリムス・ピルス」と呼ばれる筆頭ケントゥリオが執った。

BC4世紀の初めころから日給とが支払われるようになった。
歩兵 … 重装・軽装関係なく4アッシス
百人隊長 … 8アッシス
騎兵 … 12アッシス
また食糧も支給された。
ローマ市民の歩兵 … 6モディウスの小麦
ローマ市民の騎兵 … 18モディウスの小麦 + 馬用の63モディウスの大麦
同盟国の歩兵 … 6モディウスの小麦
同盟国の騎兵 … 16モディウスの小麦 + 馬用の45モディウスの大麦

 

レギオの組織構成

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https://twitter.com/DigitalMapsAW/status/1148958744652500992

 

レガトゥス・レギオニス (Legatus Legionis)

レギオの司令官のこと。マリウスの軍制改革によって、トリブヌス・ミリトゥムの上に設けられた職である。主に元老院議員を3年以上勤めた30歳前後の人物で占められる。この官職は元老院か皇帝の任命によって決められた。任期は3、4年からさらに長期間に及んだ。1個~数個軍団の指揮を任された。軍団長の下には、各軍団ごとに6名のトリブヌス・ミリトゥムが選出されて、2名ずつ3交代で軍団の運営を司った。通常は属州統治は行政面で属州総督、安全保障面でレガトゥスと業務を分けるが、場合によってはレガトゥスが軍事・行政両面に携わることもあった。

 

トリブヌス・ミリトゥム (Tribunus Militum)

レガトゥスを補佐する幕僚。1個軍団に6名配置された。その内5人は参謀将校の任務に就き、残る1人は元老院からのお目付け役であった。軍団の運営を統括し、大隊長級の指揮権を持っていた。

 

トリブヌス・ラティクラウィウス(Tribunus Laticlavius)

最高位のトリブヌス(指揮官)。トリブヌス・ミリトゥムと異なり、若く経験に乏しい者が就任するので、実際の戦闘の指揮を執ることは稀ではあるが、レガトゥスが死亡するなどの非常時に指揮官としての役割を果たした。

 

トリブヌス・アングスティクラウィウス(Tribunus Angusticlavius)

各レギオに5人存在する。指揮官と軍団兵の中間管理を行う公職。主にエクィテス階級の者が務めた。また2つのコホルスを率いる連隊長としてレギオからの一部兵力を分遣する際の業務も担った。

 

プラエフェクトゥス・カストロルム(Praefectus Castrorum)

野営業務に携わる上級士官。引退せず軍に残ったプリムス・ピルスのために用意された。レギオ内での階級では前述の「トリブヌス・ラティクラウィウス」、「トリブヌス・アングスティクラウィウス」より低いものの、戦闘時には事実上レギオー副指揮官としての役割を担った。通常、ノンキャリアの軍団兵が成り得る最高位の階級。

 

アクィリフェル (Aquilifer)

ローマ軍団の標準的な紋章である「アクィラ」を守る職務を担った。

 

プリムス・ピルス(Primus Pilus)

名誉とされる第1コホルスを指揮する。数ある百人隊長の中でも最も高位な役職。この階級の者が退役する際にはエクィテス(騎士階級)となり、上流階級の一員として迎え入れられた。

 

ピルス・プリオル(Pilus Prior)

各コホルスの指揮を任され、各配下の百人隊長に命令を下した。

 

プリミ・オルディネス(Primi Ordines)

ケントゥリオの中でも高位の存在でベテランの軍団兵が務めた。「プリムス・ピルス」、「ピルス・プリオル」に次ぐ高位の士官。

 

ケントゥリオ(Centurio)

ケントゥリアを指揮する百人隊長。レギオの要として戦術上非常に重要な役割を担った。また戦闘の指揮だけでなく、非戦闘時の軍団兵の軍隊生活の統括も行うなど業務範囲は広かった。通常は経験を積むことによってケントゥリオの格は上がっていったが、皇帝または上級士官によって取り立てられることもあった。

 

オプティオOptio

ケントゥリオを補佐した。「ハスティレー」と呼ばれる棒を持ち、隊列最後尾が乱れないように監督した。

 

テッセラリウス(Tesserarius)

オプティオの補佐を行った。主に上級士官と下士官の連絡を担当した。

 

シグニフェル (Signifer)

各コホルスでローマ軍の軍旗を守る職務を担った。

 

コルヌセム (Cornucem)

下級士官。

 

2) アウクシリア (Auxilia)

レギオを支援する部隊。
ローマ支配下においてローマ市民権を持たない者、あるいは戦地周辺で徴集された志願兵からなる部隊とローマの同盟国・同盟部族などが供用する部隊の2つがあった。

 

アウクシリアの組織構成

兵種は、レギオがほぼ重装歩兵であるのに対して、アウクシリアは重装歩兵に加えて以下のものも構成された。
・騎兵隊 (Equites) : アウクシリアの主力で重装。偵察や前哨戦、側面攻撃、追撃を担当。
・軽装歩兵 (Velites) : 軍団兵の前に展開する。
・投石兵 (Funditores) : 投石器で石を投げる。
・弓兵 (Sagittarii) : 弓矢を射る。主にシリア人で編成された。

騎兵隊の編成は、次のように構成されていた。
・騎兵中隊 (Ala) 1個 = 10個騎兵小隊 (約300騎)
・騎兵小隊 (Turma) 1個 = 3個騎兵分隊 (約30騎)
・騎兵分隊 (Decurio) = 10騎
同盟部族から供用された騎兵隊が独立したアウクシリア部隊を持つのに対して、異民族の志願兵などはレギオに付属したと考えられている。

 

3) リメス (Limes)

ローマ帝国の防砦システムで、ローマ領の境界線を示す。
特に柵、土塁、砦などで補強された長城をさす。長城に沿って物見櫓や城砦が築かれた。

 

パンノニアとアクインクム

パンノニアとアクインクムの歴史

パンノニアには、元々イリュリア系のパンノニア族が住んでいた。BC4世紀以降、この地域は多くのケルト人部族からの侵略を受けるようになり、ケルト系のエラウィスキー族(Eravisci)がこの地に定住した。北部パンノニアにはエラウィスキー族とイリュリア系のアザリ族(Azali)が居住していた。

BC220年からBC168年に起こったローマとのイリュリア戦争の結果、イリュリア王国領の南半分は共和政ローマ保護領となり、その後周辺領域を加えBC32年からBC27年頃にはイリュリクム属州となった。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Illyrian_kingdom#/media/File:Illyria_and_Dardania_Kingdoms.png
(パンノニアはピンクのエリアのさらに上に位置する)

 

BC9年、アウグストゥス治世でパンノニアローマ帝国支配下に入り、イリュリクム属州に併合されて国境線がドナウ川まで広がった。

西暦6年、パンノニア族はダルマティア族など他のイリュリア人と連合して反乱を起こした。反乱は3年間続いたが、ローマ帝国ティベリウスゲルマニクスによって制圧された。

10年、イリュリクム属州は新たに2つの属州に分割され、北側がパンノニア属州、南側がダルマティア属州になった。

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https://biblemapper.com/blog/index.php/2021/09/20/illyricum/

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%83%8B%E3%82%A2#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Pannonia01.png

 

パンノニアドナウ川を挟んでクァディ族とマルコマンニ族という敵対部族と相対していたため、クラウディウス帝の治世の50年頃からウェスパシアヌス帝の治世の初めまで、補助軍団であるアラ・イ・ヒスパノルム(Ala I Hispanorum)が、ティトゥス帝の治世からドミティアヌス帝の治世の80年代までアラ・イ・ヒスパノルム・アウリアナ(Ala I Hispanorum Auriana)がパンノニアに駐屯した。

1世紀中頃に現在のVízivárosエリアに最初の軍事要塞がドナウ川に沿って建設された。

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71年、ウェスパシアヌス帝の治世でパンノニアの名前が初めて公式文章に登場した。

73年に、新しい補助部隊であるAla I Tungrorum Frontonianaが現在のオーブダに新しい恒久的なキャンプ(後のアクインクム要塞関係集住地)を建設した。また、別の部隊もドナウ川の現在のAlbertfalvaにキャンプを設置した。軍の恒久的な駐屯地は、この地域の以前の入植パターンに変化をもたらした。 現地の一部の住民は、補助部隊のキャンプ周辺の集落に住み、別の一部は国境から離れた場所に再定住した。ローマの生活様式と文化との直接的な接触は、この州のこの地域の先住民の間でローマ文化の採用を加速させた。

89年、ドミティアヌス帝はドナウ川の反対側に住むゲルマン人サルマタイ人の部族に対する遠征を支援するために、Legio II Adiutrix(正規軍団)をアクインクムに移動させた。この6000人の部隊は、4世紀までアクインクムに留まった。現在のオーブダに恒久的な軍団の砦が建設された。

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https://legio-iiii-scythica.com/index.php/en/roman-historical-restorations/roman-events/aquincum-budapest-2018.html

(地図右の集落が民間人居住地で、今日のアクインクム博物館がある場所にあたる。

地図左の集落が正規軍団の要塞及び要塞関係者集住地で、今日のオーブダにあたる)

 

102年から107年までのいずれかの年(2回にわたるダキア戦争の間)に、トラヤヌス帝はパンノニア属州を上パンノニア属州(西側)と下パンノニア属州(東側)とに再分割した。アクインクムは下パンノニアでは唯一の正規軍の要塞で、属州総督の所在地でもあった。

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https://www.vox.com/world/2018/6/19/17469176/roman-empire-maps-history-explained

 

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https://www.wikiwand.com/es/Panonia_Superior#Media/Archivo:Pannonia02-es.svg

 

124年、ハドリアヌス帝の治世で、民間人居住地に自治市の権限が与えられた。また、Albertfalvaに石造りの新しい要塞が築かれた。

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(アクインクムエリアは地図のさらに北に位置する)

 

145年、アントニヌス・ピウス帝の治世でAlbertfalvaの要塞は石造りで建てかえられた。また、同時期に要塞関係集住地の南端部に円形闘技場がLegio II Adiutrixによって建設された。ネメシス神への碑文が発見されている。

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(Amphitheatrumと表示されているところが闘技場)

 

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Budapest,_%C3%93buda._Military_Amphitheatre.jpg

 

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(著者撮影)

 

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(著者撮影)

 

マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の治世(161年-180年)で起こったマルコマンニ戦争でパンノニアは大きな被害を受けたが、セプティミウス・セウェルス帝の治世(193年-211年)で要塞は改修された。
194年、アクインクムはセプティミウス・セウェルス帝から植民市の権限を得た。イタリア権も与えられたかは不明。

以前から町の中心は民間人居住地から要塞関係集住地に徐々に移っていったが、214年にカラカラ帝がこの地を訪れたときには要塞関係集住地が完全に町の中心になっていた。

アクインクムの最盛期は3世紀で、その頃の人口は約5万人から6万人であった。

260年、クァディ族とサルマティア族がパンノニアに侵攻したことで、アクインクムは大きな被害を受け、正規軍団の要塞の大半は再建を余儀なくされた。

ディオクレティアヌスの治世(284年-305年)に、パンノニアは4つに分割された。
パンノニア・プリマ (首都: サウァリア) - 現ソンバトヘイ
パンノニア・ウァレリア (首都: ソピア) - 現ペーチ
パンノニア・サウィア (首都: シスキア) - 現シサク
パンノニア・セクンダ (首都: シルミウ) - 現スレムスカ・ミトロヴィツァ
アクインクムはウァレリア の中心となったが、民政と軍政が分割されたため、軍事を司る将軍(Dux)がアクインクムに常駐した。

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https://hu.wikipedia.org/wiki/Pannonia_Valeria#/media/F%C3%A1jl:Pannonia03_en.png

 

コンスタンティヌス帝の治世(306年-337年)には、要塞の東側に新しい要塞が建設された。旧要塞の西側は放棄された。

ウァレンティニアヌス帝の治世(364年-375年)には、要塞の工事が行われたが、死後、要塞の北側は放棄された。

377年、ゴート族がパンノニアに侵入し、元の住人はパンノニアから脱出した。

433年、ウァレンティニアヌス3世の時代に、パンノニア属州はフン族に割譲され、ローマ帝国の属州ではなくなった。

 

アクインクムの水道橋

アクインクムの水道橋は長さ約5 km、勾配は約1-2度たっだ。
現在のRómai Lido一帯に少なくとも泉小屋が15棟あり、それが1棟の大きな小屋につながっており、そこから水道橋に水が供給されていた。

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(赤い印のところが始点。水道橋はそこから真下に伸びていた。
見学可能な部分はアクインクム博物館横のオレンジ色で示されている道路と線路に沿ってある)

 

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(Google Mapより)

 

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https://teacher-and-traveller.blogspot.com/2013/03/the-romans-in-hungary-4-ancient.html

 

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アクインクム博物館

民間人居住地の3分の1が発掘され、見学できるように整備されている。
124年、ハドリアヌス帝の治世で、民間人居住地に自治市の権限が与えられた時、この町は380メートルx420メートルの敷地を市壁が囲んでいて、90メートルごとに砦が設けられていた。

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(民間居住地はこの一帯だが、オレンジ色で示されている道路と線路が縦断しており博物館として整備されているのは右側。道路と線路を挟んだ左側は発掘されていないが、真ん中上にあるAquincum駅のすぐ左に円形闘技場があり見学可能)

 

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(地図左の集落が正規軍団の要塞及び要塞関係者集住地で、今日のオーブダにあたる。
地図右の集落が民間人居住地で、アクインクム博物館として整備されているのは下半分)

 

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(民間集住地の拡大図。上半分の右上にあるのが円形闘技場)

 

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https://hu.wikipedia.org/wiki/Aquincumi_polg%C3%A1rv%C3%A1rosi_amfite%C3%A1trum#/media/F%C3%A1jl:Budapest_III.,_Aquincum,_Ancient_Roman_civil_amphitheatre.jpg

 

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(Google Mapより。円形闘技場)

 

アクインクム博物館内部

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要塞関係集住地

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赤の点線で囲われている一帯が要塞関係集住地。発掘が行われ、テルマエなど見学できる遺跡があるのは10、11と表示されている高架下の部分。中に入ることはできない。

 

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(著者撮影)

 

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(著者撮影)

 

出土品の一部は自由に見学することができる。

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(著者撮影)

 

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(著者撮影)

 

リゲティオ (Brigetio)

100年頃に北から帝国を攻撃してくるクァディ族に対抗するためにトラヤヌス帝がアクインクムの北西に新たな軍事都市ブリゲティオを建設した。

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https://hu.wikipedia.org/wiki/Ad_Mures#/media/F%C3%A1jl:Limes4.png

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E6%97%8F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Roman_Empire_125.svg

 

To be continued

 

ローマ史用語集

 

1) 政治体制関連用語

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https://slidetodoc.com/roman-republic-roman-empire-unit-11-fall-of/

 

貴族 (Patricii)

平民 (Plebs)

民会 (Comitia)

クリア民会(部族員会)、ケントゥリア民会(兵員会)、トリブス民会(地域員会) の3つの民会があり、兵員会では、投票による執政官と法務官の選出が行われた。兵員会はパトリキが多数を占めた。

 

独裁官 (Dictātor)

非常時のみに設置される。定員は1名で任期は半年。
通常時の全ての政務官独裁官の下に置かれ、独裁官の決定は護民官の拒否権によっても制限されないものとされた。さらに補佐役として騎兵長官(Magister Equitum)を独断で任命することができ、命令権(Imperium)が与えられた。

 

監察官 (Cēnsor)

国勢調査とローマの風俗の引き締めを担当した。国勢調査は戸主たちの財政状態の調査であったため、財政状態を正直に申告しなかった者を告発する権利を有した。元老院議員の任命と追放も行った。定員は2名で、任期は1年半。年齢上の資格は不明。

 

執政官 (Consul)

最高政務官で、軍司令官。定員は2名で、任期は1年。再選可能。年齢上の資格は40歳以上。執政官は常に二人一緒に選出され、途中選出の場合でも任期終了日は同じ。民会や元老院の召集権や法案提出権、軍事指揮権(相方の執政官と軍を二分して各々が自分の軍を指揮した)も保持し、加えてもう一人の執政官や下位政務官の決定に対し拒否権を行使する権限が与えられていた。また、非常時と認めた場合は、最長6ヶ月任期の最高官職である独裁官を指名する権限もあったが、実際には元老院の賛同を得て指名されたとされている。
また、帝政移行後も、初期の帝政は共和制の枠組みを乗っ取ったようなもののため、2名ずつ執政官は置かれ続け、執政官及び経験者は依然高い地位であり続けた。また皇帝と共に就くものはその後継候補者として大きな意味を持った。しかし541年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって官職としては廃止され、名誉的な爵位の名前として残るのみとなった。

 

前執政官 (Proconsul)

コンスルの任期満了後も軍事指揮権を継続して行使できるように作られたポスト。ローマが各地に属州を持つようになると、コンスルを任期満了で退任した者が、1-3年の間、プロコンスルとしてローマの属州総督として派遣された。プロコンスルが統治する属州はいくつか決まっており、各年の執政官の任期を終えた2名は、元老院の任命する属州に派遣された。どの属州に派遣されるかは、無作為に選ばれる場合もあれば、プロコンスルの職務に与る者同士で協議する場合もあった。

 

法務官 (Praetor)

当初は1名であったが、紀元前244年以降増員され、ローマ市民権を保有するローマ市民に関する司法を担当する首都プラエトル(プラエトル・ウルバヌス)と、ローマに滞在する外国人の司法を担当する外国人係プラエトル(プラエトル・ペレグリヌス)の2名が首都に配置されるようになった。紀元前228年には4名に増員され(シチリアサルディーニャ担当増員)、紀元前198年には6名(ヒスパニア担当増員)と、ローマが属州を獲得するたびに増員され、首都の2名以外は命令権保有者として属州総督の任にあたった。最終的には16名にまで増員された。任期は1年で、年齢上の資格は40歳以上。

 

財務官/会計検査官 (Quaestor)

国家財政と軍団会計を担当した。定員はもともと2名だったが、最終的に40名になった。任期は1年。年齢上の資格は30歳以上。

 

造営官 (Aedilis)

定員は貴族2名と平民2名で、出身階層が明らかにされた。後に6名に増員された。任期は1年で、年齢上の資格は30歳以上。公共施設やインフラの造営・管理、祭儀の管理、食料確保を担当した。剣闘士試合や野獣狩り、戦車競走、演劇などの開催も行った。

 

元老院 (Senatus)

最高立法機関。定員は300名で終身。コンスルなどの政務官(Magistratus)経験者から選出される。リキニウス・セクスティウス法から数年後に制定された法律により平民でも護民官などの重要な公職を経験した者は元老院議席を得ることができるようになった。政策を決定する法的な権限は与えられず、助言、忠告、勧告の権限しか与えられていなかった。

 

平民会 (Comcilium plebis)

聖山事件(BC494)を経て、設置された。プレブスだけが参加できる民会で、護民官を選出する。

 

護民官 (Tribūnus plēbis)

定員は2名だったが、最終的に10名まで増員された。任期は1年。年齢上の資格はなし。元老院コンスルの決定に対し、拒否権を発動できる。ただし、戦時には行使することができなかった。

 

執政武官 (Tribunus militum consulari potestate)

コンスルを巡る、パトリキプレブスの確執を緩和するために、コンスルに取って代わる職として創設された。プレブスでも選挙で当選し就くことができた。ただし、パトリキが基本的に定員の全部か大半を占めた。定員は3-6名で、年によって異なる。

 

食料供給長官 (Praefectus annonae)

定員は1名。都市全体に食料を供給する責任を負う。

 

造幣三人委員 (Triumviri monetas)

低位階梯公職。定員は3名。後に、カエサルにより4名に増員される。任期は1年。貨幣の製造を担う。造幣量は元老院の決議に基づいた。

 

リクトル (Lictor)

古代ローマにおける役職の1つで、命令権を有する要人の護衛を主な任務とした。共和政ローマ帝政ローマでも存在した。

 

命令権 (Imperium)

古代ローマで王に与えられた行政執行権で、軍司令権やローマ市民に対する死刑執行を含む法の執行権もこれに含まれた。共和政では1年の期限で、執政官 、独裁官護民官に与えられた。(後にプロコンスルやプロプラエトルらにも与えられた)

 

ラテン同盟/ラティウム同盟 (Foedus Latinum)

BC7世紀ごろに周囲の約30の国や部族と結んだ軍事同盟。総指揮権はローマが有した。戦利品は、半分はローマに、残りの半分は他の同盟諸国に与えられた。また、同盟に加入している国や部族の間では、市民権や結婚の権利、通商権は平等で、自由に移住することもできた。毎年1回ファレンティーナの森で協議が行われた。しかし、BC390年のケルト人襲来時に同盟諸国の離反を招き、軍事同盟として機能しなかったことからBC338年に同盟を解体し、対外関係の抜本的な改革に着手した。
以降、ローマは周辺国を植民市、自治市、同盟市に分けて関係を構築した。なお、ラテン同盟から離脱したものの、再度ローマに敗れた国には完全なローマ市民権を与え、併合した。それにより、ローマからの指令や軍政派遣を効率よく行うためにアッピア街道(BC312)などのローマ街道が次々に敷設された。

 

戸口調査 (Cēnsus)

徴税や徴兵のために行われ、BC443年以後は戸口総監が任命され、原則的に5年ごとに行なった。自己申告制であった。

 

元首制 (Principatus)

オクタビアヌスによって確立された帝政初期の政治体制。共和制の伝統を尊重した帝政で、皇帝はプリンケプス(元首)として統治した。

 

専制君主制 (Dominatus)

ディオクレティアヌス帝から始まる中央集権的な政治体制。皇帝はドミヌス(主)と呼ばれ、専制化、神格化された。

 

2) 法律関連用語

土地分配法案 (カッシウス法案)

BC486年に執政官で平民派のスプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスが提出した法案。同年に起こったヘルニキ族との戦いで和平条約が締結され、彼らはその領土の3分の2をローマに割譲する事に同意した。カッシウスは、この領土を他のローマ国有地と共にラテン同盟(ラティウム同盟)とプレブスたちに配給するよう提案した。ところが、元老院と同僚の執政官プロクルス・ウェルギニウスはこれを否決した。BC485年にカッシウスが退陣すると、彼はクァエストル・パッリキディ(査問官)のカエソ・ファビウスとルキウス・ウァレリウスから、王位を狙ったと糾弾され処刑された。以降、パトリキプレブスの対立はさらに激しくなった。

 

十二表法

古代ローマ初の成文法。
土地分配法提出以降、毎年のように護民官の提出するプレブスの権利拡大や、パトリキの権限制限を狙った法案を巡って争いが起きており、その妥結点として、パトリキプレブス双方から責任者を選出して新しい法を定める事が提案され、責任者についてはひとまず置き、ソロンの法や社会制度の研究のため紀元前454年にペリクレスによる民主政下のギリシア使節が派遣された。成文法の作成はローマの最高の権限を与えられたアッピウス・クラウディウスら十人委員会が担当し、その間は執政官や護民官といった通常の高位官職は停止された。BC451年にまず十表の法が制定され、その翌年に第二次十人委員会によって二表が追加された。しかし、十二表法はプレブスの期待したものとは程遠く不評であった。同法はその後改正を重ねていった。

 

カヌレイウス法

BC445年に護民官ガイウス・カヌレイウスによって制定された。パトリキプレブスの婚姻を可能にした。

 

リキニウス・セクスティウス法

BC390年のケルト人(ガリア族)襲来の教訓を得て、貴族と平民の対立を終わらせ、国を1つに統一する必要があったローマで、BC367年に護民官2人によって制定された。
‣トリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテを廃止しコンスルを復活させる。コンスルのうち1人はプレブスから選出されなければならない。
‣誰も500ユゲラ以上の土地を保持してはならない。
‣債務者がすでに払った利息は元本から差し引かれる。そして残額を3年間の均等分割払いで支払う。

 

ホルテンシウス法

BC287年に独裁官ホルテンシウスによって制定され、平民会の決議を国法とすることが定められた。

 

クラウディウス

BC218年に制定され、元老院議員とその息子たちが大型船を所有することを禁じた。

 

キンキウス法

BC204年に制定され、法廷弁護の名目で金銭や贈物を受け取ることを禁じた。

 

オルキウス法

BC182年に制定され、饗宴の人数が制限された。

 

ファンニウス法

BC161年に制定され、饗宴の費用が制限された。

 

ディディウス法

BC143年に制定され、ファンニウス法がイタリア全土に適用された。

 

センプローニウス法

BC120年に制定され、ローマ街道にマイルストーンが置かれた。
当時の1マイルは1000歩。現在の1481メートルに相当する。

 

3) 属州関連用語

イタリア権 (Ius Italicum)

ローマ皇帝によってローマ帝国の特権都市に与えられた名誉。市民権の地位を表すものではなく、イタリアに固有のものであった法的擬制をイタリア以外の共同体に与えたものである。これは、その地方やヘレニズム地方の法律よりもローマの統治下にあることを意味するものであり、属州の総督たちとの関係においては、より高い自律性を持ち、これらの諸都市で生まれた者は、自動的にローマ市民権を与えられ、 これら諸都市は租税を免除された。ローマの市民として、イタリア権を持つ人々は財産の売買をすることができ、地租と人頭税を免除され、ローマ法で守られる特権を獲得した。

 

植民市 (Colonia)

ローマ市民が入植し、建設した都市。住民には参政権のあるローマ市民権が与えられた。兵役あり。

 

自治市 (Municipium)

ローマに服属した異民族の都市。自治が認められた。住民には参政権のないローマ市民権が与えられた。兵役あり。

 

同盟市 (Socii)

ローマに征服されたものの、ローマの支配に最後まで抵抗した都市。住民にはローマ市民権は一切与えられなかった。兵役あり。
➙ BC1 南イタリアの同盟市が市民権を求め反乱 (同盟市戦争)

 

属州 (Provincia)

ポエニ戦争(BC264-BC146)以降にローマが征服した都市。住民にはローマ市民権は一切与えられなかった。兵役なし。

 

ローマ市民権 (Civitas)

民会における選挙権・被選挙権、婚姻権、所有権、裁判権とその控訴権、ローマ正規軍団兵となる権利、拷問されない権利、官吏の決定に反対して上訴できる権利などが与えられた。人頭税や属州民税(資産の10%で、収穫の33%程度)も課されなかった。また、コロッセウムでの観劇や浴場への立ち入りの権利や食料の無料配給権を与えられ、皇帝や有力者からの贈り物も受け取ることができた。加えて、植民地に移住すれば一定の広さの土地を無償で得ることもできた。
一方で、17歳から45歳までの男性は現役で、それ以降も60歳までは予備役として軍役につく義務があった。これは納税の代わりでもあった。
以下の方法でローマ市民権を得ることができた。
‣正式な婚姻の関係にあるローマ人の両親より生まれた男子は自動的に与えられた。
‣解放奴隷はローマ市民権が与えられるが、彼らは以前の主人(Patronus)と主従関係にあり、その庇護民(Clientes)となった。解放奴隷の子供には自動的にローマ市民権が与えられた。
‣ローマ人の軍団兵(百人隊長は除く)は正式に結婚はできず、内縁関係から子供があっても兵役期間内は子供にはローマ市民権が与えられなかった。しかし除隊・退役後には子供には認められた。
‣入隊当時ローマ市民権を持たなかったローマ支援軍の兵は兵役期間(25年)を務め上げ退役すると世襲ローマ市民権が授与された。その子供は自動的にローマ市民権を持つ事になり父とは違いローマ市民権を持つ者から構成されるローマ正規軍への参加が可能となった。ただし、140年以降一部の補助兵を除き、ローマ市民権が授与されるのは満期除隊した補助兵当人だけとなった。補助兵でも上位の隊長クラスになると、満期除隊を待たずにローマ市民権を得た。
‣属州の有力者などローマに対して大きな貢献をした者にはローマ市民権が与えられた。
‣夜警隊に通算9年勤務すると市民権がもらえた。
‣高額な金額を出資できれば市民権を買う事ができた。

 

4) 文化・社会用語集

フォルム (Forum)

王政ローマ時代から存在した公共広場。
帝政ローマ時代には、四周をバシリカ元老院、神殿などの公共施設や列柱廊で取り囲まれた計画的なオープンスペースとなり、屋根のない公共建築の観を呈するのが普通であった。フォルムは、幹線道路上に集落が形成されるとき、その中心に商店などが集まる「広場」として造られた場所を起源とする。町が発展し都市となると、フォルムは商業活動の中心だけでなく、政治・司法の集会、宗教儀式、その他の社会活動が行われるオープンスペースとなり、また市民生活の上で最も重要な都市施設となっていった。

 

公衆浴場

一般的の公衆浴場のことをバルネア(Balnea)といい、その中でも大きな公衆浴場のことをテルマエ(Thermae)と呼んだ。ドムスには内風呂があったが、インスラにはなかったため、テルマエやバルネアが帝政末期まで重要な役割を果たした。
入浴料は首都ローマで男女とも1クワドランス(4分の1アス)で、パン一斤の値段よりもはるかに安かった。子供や兵士、公務員の仕事をしている奴隷は無料だった。
もともと男女混浴が基本だったが、後にハドリアヌス帝により男女別々になり、時間帯で男女を入れ替え制をとることもあった。
フリギダリウム(冷浴室)、カルダリウム(熱浴室)、スダトリウム(発汗室)などがあった。カラカラ浴場には講義用ホールやラウンジ、図書館、運動施設などが併設され、大理石で作られた座席が1600席あった。
建物内は、床と壁に空間を空け、地下の炉から出た熱気を送り込み、屋根から排出される仕組みのハイポカウストという暖房システムが使われていた。ただ、ローマでは炉に石油や石炭ではなく、常に薪を使ったため、森林が次々に消え、洪水の多発など深刻な環境問題を引き起こした。

 

インスラ (īnsula)

庶民が住んだ大規模なアパートで、2-7階あった。建物の1階は飲食店(Thermopolium)や貸店舗(Tabernae)で、上層階が住居になっている。
4階まではレンガで作られ、5階以上は木材などの軽い建材が使われた。そのため、上層階ほどもろくて壊れやすく、家賃も安かった。
トイレやキッチンは付いておらず、トイレは公衆トイレか壺の中でし、食事は火鉢使って料理したり、飲食店を利用した。
「街区」という意味でもこの単語は使われた。

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https://www.imperivm.org/las-insulas-los-edificios-romanos-de-varios-pisos-de-altura/

 

ドムス (Domus)

富裕層が住んだ一戸建て。インスラの窓が外側につけられていて外側に開放されているのに対して、ドムスは外側の窓はあまりなく、中庭に向かって内側に開放されていた。

 

ヴィラ (Villa)

富裕層の別荘。
ヴィラ・アーバナ … ローマなどの都市近郊にある休暇用の別宅。知識人や富裕層の交流の場としても使われた。
ヴィラ・ルスティカ … 遠方の領地などにある農場を主体とした別宅。常に奴隷を置いて収穫作業(ブドウやオリーブ)などに従事させ、時々所有者が訪れて休暇を取った。所有者が不在の時は管理人がいた。

 

公衆トイレ (Foricae)

便座は箱型でそこに座って用を足した。仕切りや個室も一切なかった。利用者はもっぱら男性で、排せつだけでなく、会話を楽しむ目的もあった。
大便をした後は、キシロススポンジウム(Xylospongium)という海面が付いた棒で肛門を拭いていた。小便は再利用の価値があったため、壺にしていた。
もともとは無料だったが、ウェスパシアヌス帝が有料化した。そのため、以降は公衆トイレ管理人(Conductores Foricarum)が常駐し、少額の利用料金を徴収していた。
公衆浴場には上下水道が整備されていたため、フォリカエは公衆浴場の近くや内部にあることが多かった。下水道の上に建てられ、下水が便を流す水として再利用された。

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https://imperiumromanum.pl/en/roman-society/hygiene-in-ancient-romans/

一戸建ての住宅にもトイレはあったが、上下水道に接続されていなかったため、敷地内の汚水槽に貯められた。
また、アパートの上層部では持ち運び可能な室内用尿壺(Matela Fictilis)が使用されたが、壺に入れず、窓から放り捨てる住人もいた。毎年100万立方メートルの糞尿やゴミ、生活排水がティベル川に流されていたため、2世紀ころになると川の汚染が深刻になっており、医師たちは川の魚貝を食べないように警告した。

 

テルモポリウム (Thermopolium)

庶民用の飲食店。
調理台にはドリア(Dolia)という壺が埋め込まれており、冷たい食べ物や乾燥させて食べ物はこの中に入っていた。
また、調理台の上には火鉢が置かれ、その上に三脚台や金網をかぶせて調理を行っていた。煙突はなく、煙は壁穴から逃がしていた。

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https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20201227001498_comm.jpg

 

ポピナ (Popina)

庶民用のワインバー。軽食も提供された。
ここで朝食をとることが庶民の間では一般的だった。
オリーブやイチジクを固めたもの、チーズ、ゆで卵、塩漬けの魚、ローストチキンなどが提供された。調理した肉の販売は禁止されていたが、守っているポピナは少なかった。

 

ピストゥリナ (Pistrina)

パン屋。
重労働であったため、解放奴隷の開業者が多かった。
首都ローマには300軒以上のパン屋があった。
後に製パン技術を学べる専門学校が開設されたり、パン屋の親方は国家の管理下に置かれ、国から給料をもらう国家公務員職になった。

 

結婚 (Matrimonium)

BC1世紀以前のローマでは結婚は、ファール麦のお菓子を用いた宗教儀式を行うファール共食式(コンファーレティオ)、妻となる女性を夫側の家が書いとる手続きを行う共買式(コエンプティオ)、夫婦となる男女が1年間同棲して結婚の是非を男性が決める使用式(ウースス)のいずれかだった。
法律上、妻は実父の娘から夫の娘となり、実家での法定相続権を失い、妻の個人財産は夫のものになった。夫が死亡したときは、婚家での法定相続に加わることができた。
BC1世紀以降、妻は夫の手権に服さず実父の娘のまま嫁ぐことができるようになり、実家での法定相続権を保持し続けた。一方で、死亡した夫の財産に対する法定相続権は失った。また、同時期に妻にも離婚を申請する権利が認められ、妻の所持金は離婚時に返還されるようになった。
結婚可能年齢は、男性が14歳もしくは身体検査で結婚可能と判断されたとき、女性は12歳とローマ法で定められた。届出など法律上の手続きはなく、結婚式を挙げる必要もなかった。ただし、ローマ市民同士の結婚でなければならず、法廷年齢を超えてない者の結婚や四親等以内の結婚は禁止されていた。
初婚の女性には処女であることが求められた。また、花嫁側には嫁入り前の持参金(Dos)が求められ、準備できない場合は近親者や自分の被解放自由人との結婚を余儀なくされた。持参金は再婚の際も必要だった。
女性が若い年齢で結婚する場合、未成熟な子宮を傷つけて後々の妊娠出産に支障をきたすことがないように新婚初夜にはアナルセックスが行われることもあった。

 

教育 (Educatio)

ローマには義務教育はなく、ギリシアとのつながりがより密接になったBC3世紀ころから教師が社会に登場するようになり、7歳くらいから11歳くらいの子供たちは初等教師から読み書き計算を習うようになった。教師の多くはギリシア文化圏出身の奴隷や被解放自由人だったため、教師の地位は低く、授業料も安かった。
BC250年頃から私立の学校が登場した。ただし、校舎を持たないことも多く、公共広場や路上で授業が行われることもあった。7歳から13歳までは男女共学の小学校に通うのが一般的だった。舞踊や音楽を学ぶための女子校も存在した。
BC2世紀の末頃から、ギリシア語とラテン語で書かれた文学作品を教科書にして文法や文学を教える中等教師や修辞学を教える高等教師が出現した。
帝政期には、主要都市で修辞学教師の公設ポストが設けられた。また、口頭教育をローマで修めた後にギリシアなどへ留学する者もいた。

 

図書館 (Bibliotheca)

開館時間は夜明けから正午までで、貸し出しは行われていなかった。
4世紀のローマには大きな図書館が28館あった。

 

書店 (Libraria)

共和政の末期から書店が多く存在するようになった。
執筆は口述で行われ、筆記者(Librarii)が記述した。そのため、速記術のスキルが重宝された。
出版者によって出版された本は2-3週間で数十部だった。
値段は廉価版で約2セステルティウス、豪華版で約20セステルティウスだった。(2セステルティウスは公衆浴場の入館料の約32倍)
現在のような本の形は1世紀ころから登場するが主流になるのは4世紀以降でそれまでは巻物タイプが主流だった。

 

5) 食関連

食事 (Epulum)

古代ローマの食事は、朝食(Ientaculum)、昼食(Cena)、夕食(Vesperna)の3食で、夕食は軽くつまむ程度だった。それがギリシアの影響を受けると、Cenaの内容が豪華になり、Vespernaにとって代わり、昼食(Prandium)が導入されるようになった。夕食は、電気がなく、たいまつも高価であったため、午後3時-4時に食べるのが一般的だった。饗宴もこの時間帯に行われるのが普通だった。
主食はプルスやパニスで、ヒヨコ豆やレンズ豆などの豆類、キャベツやレタス、タマネギ、ニンニク、オリーブ、根菜類なども野菜も食べられていた。
肉は猪肉が最も好まれ、豚肉も食べられていたが、高価であったためこれらは金持ち向けで、庶民は魚介類やチーズなどを食べてたんぱく質を摂取していた。魚や肉を干物やスモーク、塩漬けにすることもできた。
味付けには、塩や酢、ハチミツ、果物が使われた。また、ガルムも使われた。ローマが他国と貿易をするようになると、様々なスパイスが入ってきたが高価であったため庶民に縁はなかった。
シルフィウムという北アフリカ原産のハーブは香辛料や薬草として大いに人気があったため、大量に採取され、栽培することもできなかったため絶滅した。
飲み物はワインが最もよく飲まれた。山羊や羊、馬、ロバのミルクがあったが、飲み物として飲まれることはあまりなく、チーズやヨーグルトの原料として使用された。
コーヒー豆は古代ローマに存在しておらず、コーヒー豆を煎って、飲料として飲むことがヨーロッパに伝わったのは17世紀に入ってからだった。
金持ちは雪を保管し、冷蔵庫・冷凍庫にできる氷室を自宅に備えていたが、庶民にはそんな余裕はなかった。
歴代皇帝によって庶民への穀物などの食糧の無料配給が行われた。

 

食器

山盛りの料理を小分けにするときに使う大きめのスプーン、リグラ(Ligula)と軟体動物を突いて食べるときに使う小さめのスプーン、コクレアル(Cochlear)は存在したが、人々は基本的に手づかみでものを食べた。フォークが誕生したのは中世で、古代ローマには存在しなかった。

 

ローマの魚の消費がどのように形作られていったかの歴史はまだ完全には解明されていない。魚に対する食欲を持っていなかった初期のローマ人は、豚肉やベーコン、チーズ、果物、野菜(主に豆)を食べた。 しかし、最も遅くてもBC3世紀までには、魚の消費文化(基本的に海魚)が確実に存在していた。
初期のローマでは魚への嫌悪感により、宗教的な儀式での役割を果たさなかったため、その消費は神聖な規則や祭りによって制限されなかった。多くの文学的および考古学的証拠が、共和国末期までには特に海で、漁業がかなり重要であったことを証明している。また、古代ローマでは魚の養殖も行われていた。

 

プルス (Puls)

古代ローマの主食で、殻付きの麦の粥。

 

マーザ

大麦にハチミツや酢を少量入れ、水で伸ばしてかき混ぜ、そのまま食べたり焼いて食べたりした。

 

パニス (Panis)

パン。BC2世紀の初めに回転式の挽き臼が導入されると、殻なしの麦が普及するようになり、パンが食べられるようになった。
初期のパニスはエンメル麦という穀物からつくられており、紀元前後に小麦で作られるようになった。

 

モレトゥム (Moretum)

ニンニクと塩で硬めに仕上げたチーズにパセリ、ルー、コリアンダーなどの香草を塩と共にすり潰し、仕上げにオリーブオイルと酢をたらして作られたペースト。パンに塗って食べられた。

 

ガルム (Garum)

サバやイワシ、ニシン、マグロなどの魚や貝、エビなどの食べない身の部分や内臓を壺に入れて、発酵させた魚醤の一種。

 

ラガーネ (Lagane)

小麦粉を薄くのばしてパスタ上にしてオリーブオイルで焼いて食べた。現代のパスタ料理と違い、煮て食べることはしなかった。古代ローマでは現代のパスタ料理は存在しなかった。

 

ヴィヌム (Vinum)

ワイン。最も飲まれた飲み物だが、生で飲むことはほとんどなく、水で割ったり、スパイスを足して飲んでいた。

 

ムルスム (Mulsum)

ワインとハチミツを混ぜたもの。食前酒として飲まれた。

 

デフルトゥム (Defrutum)

ブドウ汁を煮詰めて甘くしたシロップ。水で割った飲んだ。

 

ポスカ(Posca)

酢と水を混ぜた飲み物。

 

6) 衣服・美容関連

衣服 (Vestimenta)

日常の衣服は家の女性たちが作るのが一般的だった。そのため、機織りの腕前がローマ女性の美徳の1つとされていた。絹を用いた高級な衣服や、加工の際に高い技術を要するような衣服は専門の工房で作られていた。

 

トガ (Toga)

ローマ市民男性の正装。共和政末期までのトガは丈の短いシンプルなものだったが、末期以降は丈が長く複雑なドレープをもったものが主流になった。幅は5.5メートルで、丈は2メートルほどあった。
ローマ市民だけが着用を許され、市民権を持っていない外国人や奴隷、解放奴隷は着ることができなかった。
トガは美しく着ることが他の衣服よりも特に求められたため、着つけ専用の奴隷がいた。アイロンがけも奴隷の仕事だった。
元老院議員はトガ・プラエテクスタ(Toga Praetexta)という幅広の赤紫色の縞がついたトガを、騎士身分の市民は同じトガ・プラエテクスタでも幅狭のトガを着用していた。
また、戦争で大勝利を収めた将軍は凱旋式の時に、トガ・ピクタ(Toga Picta)という金糸で刺繍した全体が赤紫色のトガの着用が許された。政務官選挙の候補者たちはトガ・カンディダ(Toga Candida)という白いトガの着用が許された。
下級の神官や占い師は一般のトガより一回り小さく、紫色のトガ・トラベア(Toga Trabea)を、成人は生成色のトガ・ウイリリス(Toga Virilis)を着用した。また、葬式や友人、家族が逮捕されたときはトガ・プラ(Toga Pulla)という濃い灰色の生地のトガを喪服として着た。
ただし、着用や手入れが大変だったため、帝政期になるとあまり着られなくなった。
古い時代は、女性もトガを着用していたが、後に売春婦だけが身につけるようになり、女性のトガ着用は好ましくないものとして認識されるようになた。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AC

 

トゥニカ (Tunica)

BC2世紀ころから一般的になった袖と丈が短い服で男性用。
元老院議員は幅広の赤紫色の縞がついたTunicaを、戦車競走の御者は、各自が属する組のチームカラーのTunicaを着用していた。

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https://br.pinterest.com/pin/189854940526454289/

 

ダルマティカ (Dalmatica)

2C初めにダルマチア地方からもたらされたもので、当初は貧しいローマ自由民がきていたが、一般市民や貴族たちに広がった。現在はローマ法王の正装になっている。

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https://www.gruppoliturgico.com/en/prodotto/dalmatic-7/

 

パエヌラ (Paenula)

ダルマティカの上に羽織られた厚手のウール生地の袖なしマント。フード付きのパエヌラ・ククルラタというものも存在した。

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https://projectbroadaxe.weebly.com/commission-projects/roman-wool-paenula-charlie-g

 

ラケルナ (Lacerna)

BC1世紀ごろにローマに入ってきた腰丈までの短いコートで、トガで寒い日の行事に参列するときに用いられた。

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https://romaikor.hu/a_romaiak_mindennapi_elete/a_romai_divat/uti_ruhazat_es_oltozet/cikk/lacerna

 

サグム (Sagum)

ガリアやイベリア半島からもたらされた丈の短いコート。後に高級軍人用の衣装となり、丈が長くなっていった。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Sagum

 

スブリンガクルム (Subligaculum)

男女両方の下着。
肉体労働者はこれだけつけて作業していた。

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https://www.armae.com/en/articles/vt605-gladiators-subligaculum-woolen

 

ブラカエ (Braccae)

ガリアからもたらされたウールのズボン。ティピアリアというスパッツと合わせてはくのが一般的で、戦や狩猟時に着用された。

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https://projectbroadaxe.weebly.com/miscellaneous-history-projects/how-to-donning-roman-braccae

 

ストラ (Stola)

既婚女性用の丈の長いドレス。
姦通をした女性や売春婦は着てはならなかった。
襟ぐりには既婚を示す縁飾りがついていた。
ストラの上にPallaというショールを羽織ることもあった。

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https://www.stmargaretsprimary.org.uk/_data/site/305/pg/376/RomansReadingLevel3.pdf

 

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https://www.pinterest.com/pin/roman-clothing--271130840047493920/

 

マミラレ (Mamilare)

女性用のブラジャー。

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https://www.reddit.com/r/ancientrome/comments/wzgf4n/replication_of_a_roman_strophium_ormamillare/?rdt=35129

 

カスチュラ

アンダースカート。

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https://www.news-postseven.com/archives/20190904_1444086.html?DETAIL

 

パルリウム (Pallium)

男性用のマント。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Pallium_(Roman_cloak)

 

カラカルス (Caracallus)

兵士用のフード付きの外套。

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https://www.ostia-antica.org/caracalla/family/caracallus.htm

 

シュンテシス

饗宴の時に着られた薄く軽い素材でできた上下白の使い捨て服。

 

ソレア (Solea)

カジュアルなサンダル。公の場で履くことはマナー違反とされた。

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https://www.resrarae.de/2nd-century-ad/solea-from-antinoe/

 

ソックル

ソックルににたサンダル。白、赤、金など様々な色に染められた。富裕女性は真珠などで装飾したソックルを履いた。

 

カルケウス (Calceus)

ローマ市民だけが履けた正装用の靴。
組みひもの色で身分が分かるようになっており、貴族は赤、元老院議員は黒の紐を用い、半円の象牙のバッジをつけた。帝政期以降は一般市民も象牙のバッジをつけることができた。軍隊では百人隊長以上の者だけが履くことができた。

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https://yourfreesm.xyz/product_details/26533967.html

 

カリガ (Caliga)

軍用靴で、靴底に描画打たれている。

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https://www.pinterest.com/pin/a-pair-of-caligae-i-made-after-one-of-the-finds-from-mainz-9-another-interesting-model-after-doing-lindenschmitts-2-and-the-almost-complete-caliga-from-ca--12173861471896613/

 

ペロ

革のズック靴で、位の低い軍人や農民、労働者たちが作業靴や日常靴として履いた。

 

カンパグス (Campagus)

丈の長いブーツのような靴。
もともとは軍用靴たっだが、皇帝が軍隊と結びついてからは皇帝や上級貴族の履物となった。

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https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47e1-3322-a3d9-e040-e00a18064a99

 

スクルボネア

貧しい農民や奴隷が履いた粗末な靴。

 

ムルレウス

踵が高くなったエトルリアからもたらされた靴。

 

貞操

主に女主人を世話する男性奴隷が装着させられることが多かった。
Fibulaと呼ばれるピンで包皮を留めて、革製の封入袋か金属製の鞘をかぶせる形だった。

 

帽子

帽子はマナーに反する服装と考えられていたため、古代ローマ人は基本的に帽子をかぶらなかった。ただし、神官が供養や祈願でかぶることはあった。また、葬祭業者は穢れた存在と考えられていたため、市内への居住は許されておらず、仕事で市内に入る場合には特別な色の帽子をかぶることが義務付けられた。
帝政末期になると縁なしの帽子が流行したが、女性がかぶることはなかった。

 

フロニカ (Fullonica)

クリーニング屋。洗濯物を大きな水槽に入れて、フラー土と呼ばれる漂泊作用のある強アルカリ性の土や人間の尿を水で薄めた溶液を注ぎ、手足を使って押し洗いした。それでも落ちない汚れは別室に持ち込み、硫黄の煙で燻蒸された。
洗濯後の服はすすいだ後に、粘土の粉をとかした水槽に浸けられ、店の外や中庭に干された。そして、最後にワインやオリーブオイルを搾る圧縮機を使って皺を伸ばした。

 

床屋 (Tonsores)

BC3世紀以降にローマで需要が高まり、カピトリヌスの丘の近くにあったフロラ神殿のたりに、床屋通りという一帯があった。また、ローマ下町のアルギレトゥムにはたくさんの床屋があった。
女性が床屋を利用することはなかった。
アウグストゥス帝の時代頃までは、女性の髪型は真ん中から分けた髪をそのままか細紐で結んで、後頭部へつめて丸髷にしてまとめるというシンプルなものが一般的だったが、ネロ帝かトラヤヌス帝の時代にかけて複雑な髪型が流行した。
また、髪染めや鬘もあった。ただし、鬘は女性用で、男性がつけると女々しいと非難された。

 

美容

帝政ローマの女性は、つめの手入れをする器具、毛抜き、つまようじ、耳かき、かみそり、お風呂で身体に塗った香油を掻き落とし汗や垢を擦り落とす器具などを使い、美容に気を配っていた。
化粧の文化もあり、白亜や白鉛を成分とするファンデーションで顔を白くし、アルカナや桑の実などの植物からつくられた口紅や黒い煤やアンチモンの青い粉末からつくられたアイシャドーを塗った。
美白にも気を配っていて、小麦粉をロバのミルクでこねた美白パックや、卵やハチミツ、雄鹿の角や水仙の球根などを原料とした美白パックが使われた。
日よけ帽子や日傘も存在していた。
歯を白く保つために、鹿の角や犬の歯、軽石などを焼いた灰にハチミツや没薬、ワインなどを混ぜた歯磨き粉が使われた。また、人の尿を原料とした歯磨き粉も使われていた。
また、イヤリング、ブレスレッド、腕輪、印章なしの指輪、髪飾り、婦人帽、スカーフ、真珠付きのヘアピン、ヘアネットなどのアクセサリーがよくつかれれた。また、琥珀も一般的なアクセサリーだった。

 

7) 剣闘士 (Gladiātor)

剣闘士の試合は、もともとエトルリア人から入ってきたものだったが、エトルリアでの剣闘士の試合は娯楽ではなく宗教的な行事で、戦争で亡くなった死者の魂を慰めるために奴隷に死ぬまで戦わせるものだった。
剣闘士の大半は奴隷で、個人運営の養成所で訓練を積み、貸し出された。リース料は80セステルティウスだったが、剣闘士が負傷したり死亡したら4000セステルティウスで買い取らなければならなかった。しかし、スパルタクスの反乱以降は1世紀までに全て公的管理下に置かれることになった。
自由人が出場することもできたが、護民官の前で宣誓しなければならなかった。
また、剣闘士はアイドル的な人気を博していたため、その人気ぶりにひかれて元老院議員や騎士、皇帝自らが出場することもあった。
ネロ帝の時代には奴隷が不足したこともあり、剣闘士の3分の2はローマ市民だった。
剣闘士の試合は後に野獣狩りなどの別の催しとセットで開催されることが多くなった。例えば、午前中に野獣狩りが行われ、観客の多くは昼食のために闘技場を後にし、午後に剣闘士の試合が行われた。また、昼食の間に闘技場で罪人の処刑が行われた。
試合は1対1で、平均試合時間は20分ほどであった。
どちらかが絶命した場合はその時点で試合終了となった。また、どちらかが負傷したり、投了した場合は試合は中断され、レフリーが試合を終わらせるかを判断した。レフリーが判定し、勝者が決まり、試合が終わった場合、敗者は命乞いをし、その処分は観客にゆだねられた。
勝者には棕櫚や月桂樹の葉でつくられた冠が与えられ、さらに貴金属の槍や首飾り、土地が与えられることもあった。
また、報酬も支払われた。アウレリウス帝治世での報酬は、最高ランクの剣闘士の上限が15000セステルティウス、最低ランクの剣闘士の上限が1000セステルティウスで、高額だった。
ちなみに、剣闘士の試合で費やせるお金は200000セステルティウスと法律で定められていた。
また、奴隷身分の剣闘士が8-9回勝利した場合は自由の付与と引退が許されることもあった。
もともとローマには休日はなかったが、勤労者の身をもたせるために剣闘士などの見世物を見せる日を休日として設けた。五賢帝時代にはこの種の休日は急増した。
闘技場の座席は身分によって厳格に区分けされていた。

 

8) 役者

社会的地位は極めて低く、ほとんどがギリシア人奴隷だったが、主役だけはローマ市民が演じることができた。ただし、その市民は参政権を失った。アウグストゥス帝以降は元老院家系の者と俳優の結婚は認められなくなった。女性は舞台に立つことができず、女性を演じるときは俳優が仮面をつけた。

 

9) 医療

ローマに医者を生業とする者が初めて現れたのはBC219年で、それまでは家父長が薬に関する知識を駆使して、自分たちで健康を維持していた。
薬の販売に関する規制はなく、素人がインチキな薬を売ってもお咎めなかった。
薬の原料として、植物の根や葉、動物の脂、ハチミツ、酢、パン、好物などが使われた。とりわけ、北アフリカ原産のラセルピキウムという植物の根から採った汁が滋養強壮、消化不良、循環器系の疾患、婦人病、痛風、喘息、水腫、てんかん、ヒステリー、肋膜炎に効果があり、毒蛇やサソリの毒を解毒するなど様々な効能があるとされ、よく使われた。
BC219年以降、医者の数は増えていき、帝政期では至る所に医者がいた。また、帝政期には専門分野の細分化も行われた。
3世紀のアレクサンデル・セウェルス帝の時代には、皇帝お抱えの医師に御殿医という肩書が与えられ、意思の権威と公益性が確立した。ただし、御殿医を除いて、全ての時代を通して医師の資格試験や免許はなく、名乗ればだれでも医者になれることができた。帝国の東部には医学校があったが、西部にはなかった。
外科用のハサミやメス、ピンセット、抜歯用の鉗子、骨を挟んで固定しておくための鉗子、眼球内の治療に用いられた針、肛門や子宮の拡張器具、カテテール、吸角などの医療器具が使われた。癌、特に乳がんの手術が行われることもあった。

 

王政ローマ人物事典

ローマの七丘 (Septem Montes Romae)

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https://www.heritage-history.com/ssl/cds/ancient_rome/html/guide_maps.html

 

➀ アエネーアース

出自/相関 : トロイヤ王家のアンキーセースと女神ヴィーナスの息子。
治世 : 
‣トロイヤ戦争に参戦したが、木馬作戦に引っ掛かり陥落したトロイヤから逃げ出し、現在のローマ近くの海岸に到達し、その地の王の娘と結婚し、都市ラウィニウムを建設した。

 

➁ アスカニウス

出自/相関 : アエネーアースの息子。
治世 :
‣ラウィニウムを義母に譲り、都市アルバ・ロンガを建設し、移り住んだ。

⑬ アムリウス

出自/相関 : 第12代王プロカの息子。兄ヌミトルとの王位継承争いを制し、即位した。
治世 :
‣王位を確実なものにするため、兄の娘レア・シルウィアを永遠の処女にし、後継ぎが生まれないように図るも、軍神マルスとの双子を産んだことを知ると、彼女を捕らえ、双子をテヴェレ川に流した。

 

ロムルス

在位 : BC753-BC717
出自/相関 : レア・シルウェアの息子。産後、アムリウスに母親から引き離され、川に流されたが、下流でオオカミに発見され、命を救われた。その後、羊飼いに育てられた。
治世 : 
‣レムスとアルバ・ロンガに攻め込み、アムリウスを倒した。
‣王位をめぐってレムスと仲たがいし、ロムルスはパラティヌスの丘で、レムスはアウェンティーノの丘を拠点にし、共同統治をすることにしたものの、再度仲たがいし、ロムルスがレムスを殺害した。
‣BC753年、3000人のラテン人とパラティヌスの丘の周囲に城壁を築き、都市ローマを建設し、初代王となった。
‣国政を王、元老院、市民集会の3つに分けた。
➙ 100人の家長たちを招集して元老院を創設した。その100人はパトローネスであった。(貴族のはじまり)
‣都市内のラテン人の大半は独り身であったため、都市の維持と拡大のために、サビーニ族を攻め、女性を略奪した。サビーニ族の男性に対して、クイリナリスの丘を割り当て、ローマに移住するように提案し、彼らはこれを受け入れた。
‣百人隊制度(ケントゥリア)を考案した。

➁ ヌマ

在位 : BC715-BC673 (市民集会の賛意を得て王に即位した)
出自/相関 : ローマ北東のサビーニ族の土地出身のサビーニ人。
在位 :
ヤヌス神殿を建設した。
‣農業と牧畜の振興に尽力した。
‣市民たちを各種の職能別に分け、各々が独自の守り神を持つ組合に所属するよう決めた。
‣月の満ち欠けに準じて、もともと10か月だった1年を12か月と決め、1年の日数を355日と決めた。
‣年間の祭日と休日を整備し、毎月9日目と15日目は市が立つようにした。
‣ローマの神々にヒエラルキーを与え、神々を敬う大切さを教えた。ただし、一神教にはしなかった。
‣神官の組織を整え、神官階級の長に最高神祇官を置き、その下に5人ー10人の神祇官を置いた。また、聖火を守る巫女たちや10人ほどの祭司たちも置いた。巫女たちは30年間の勤務で、その間処女でいることが求められた。ただし、専任の神官は置かなかった。

 

➂ トゥルス・ホスティリウス

在位 : BC673-BC641
出自/相関 : ローマ。
在位 :
‣アルバ・ロンガとの3対3の決闘に勝利するも、アルバ・ロンガがローマに忠誠を誓わず、近隣の部族を扇動し、ローマに宣戦布告した。トゥルスはアルバ・ロンガを攻め落とし、街を徹底的に破壊した。住民たちを奴隷としてではなく市民としてローマへ強制移住させ、市民権とチェリオの丘を与えた。また、クインティリウスやセルヴィウス、ユリウスなどのアルバ・ロンガの有力一族を元老院議員にした。

 

➃ アンクス・マルキウス

在位 : BC641-BC616
出自/相関 : ヌマの娘の子供。ローマ出身のサビーニ人。
治世 :
‣ローマ以外に住むラテン人やサビーニ人と戦い、彼らをローマに強制的に移住させ、市民権とアウェンティヌスの丘を与えた。
‣テベレ川に橋をかけた。
‣テベレ川の河口にあるオスティアを征服し外港とした。また、オスティアの征服に伴い、周辺の砂浜での塩田事業を手にした。(当時のローマは物々交換であった)
‣近隣のラテン人とラテン同盟を結んだ。

 

⑤ タルクィニス・プリスコ

在位 : BC616-BC579 (ローマで初めて選挙活動を行い、当選して即位した)
出自/相関 : エトルリア出身だが、父はギリシア人で、母はエトルリア人のハーフ。
治世 :
‣元老議員とケントゥリアの数をそれぞれ倍の200人にした。
‣戦争で破った相手をローマに移住させず、戦利品だけを奪い取り、凱旋した。
‣クロアカ・マキシマ(Cloaca Maxima)を建設した。
➙ ローマの丘と丘の間にある湿地帯を有効活用するために作られた下水システムで、ローマの丘と丘の間にある湿地帯の水をテヴェレ川に排水する。水が抜けた湿地帯は石で舗装され、政治や宗教の中心になるフォルム・ロマヌム(Forum Romanum)や大競技場であるキルクス・マクシムス(Circus Maximus)が建設された。当時のローマ人はクロアカ・マキシマを建設する技術を持っていなかったため、エトルリア人技術者を雇い入れ、技術を学んだ。
‣カピトリヌスの丘にユピテル神殿の建設を開始した。 
エトルリア人のセルヴィウスを養子にし、自身の後継者としたことで、王位を狙っていたアンクス・マルキウスの息子2人に暗殺された。

 

⑥ セルウィウス・トゥリウス

在位 :  BC578-BC535 (市民集会での選出を経ずに、元老院での決議だけで即位)
出自/相関 : エトルリア人
治世 :
‣高さは最高で10mで、基部の幅は3.6m前後、全周は11kmで16の大門があるセルヴィウス城壁(Murus Servii Tullii)をローマの周囲に建設した。
‣アウェンティヌスの丘にディアナ神殿を建設した。
‣はじめてローマの人口調査を行い、軍制、税制、選挙制度を改革した。
➙ 経済力をもとに6階級に分け、最も経済力がある第一級には98票の選挙権が与えられた。(ローマでは1人1票ではなく、ケントゥリアごとに1票)
軍備は自前のため、経済力のある方が重装備だった。
16歳未満の未成年男子と60歳以上の高齢者、女性、奴隷、無産者は直接税でもある軍務を免除された。子供のいない未亡人は騎兵の使う馬の維持費として年に200アッシス(銅)払うことが義務付けられた。
‣軍を前衛、本隊、後衛の3つに分ける戦法を確立した。
‣娘の小トゥッリアと、その夫でタルクィニス・プリスコの息子のタルクィニウス・スペルブスに暗殺された。

 

⑦ タルクィニウス・スペルブス

在位 : BC535-BC509 (市民集会での選出を経ず、元老院での決議もなく即位)
出自/相関 : エトルリア人
治世 :
‣セルヴィウス・トゥリウスの葬儀を禁じ、セルヴィウス派の元老院議員を粛正した。
‣市民議会と元老院を軽視し、政治を行った。 
‣息子のセクストゥスが親族の妻のルクレツィアを強姦したことで、彼女は父親と夫と彼らの信頼できる人物たち(ウァレリウスとルキニウス・ユニウス・ブルータス)に伝え、自殺した。彼らはタルクィニウスに不満を持つローマ人らと蜂起した。タルクィニウスはエトルリアに逃げ、妻もローマから逃げ、無事だったが、セクストゥスは暗殺された。これによりローマの王政は終わりを告げた。