ローマ史用語集

 

1) 政治体制関連用語

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貴族 (Patricii)

平民 (Plebs)

民会 (Comitia)

クリア民会(部族員会)、ケントゥリア民会(兵員会)、トリブス民会(地域員会) の3つの民会があり、兵員会では、投票による執政官と法務官の選出が行われた。兵員会はパトリキが多数を占めた。

 

独裁官 (Dictātor)

非常時のみに設置される。定員は1名で任期は半年。
通常時の全ての政務官独裁官の下に置かれ、独裁官の決定は護民官の拒否権によっても制限されないものとされた。さらに補佐役として騎兵長官(Magister Equitum)を独断で任命することができ、命令権(Imperium)が与えられた。

 

監察官 (Cēnsor)

国勢調査とローマの風俗の引き締めを担当した。国勢調査は戸主たちの財政状態の調査であったため、財政状態を正直に申告しなかった者を告発する権利を有した。元老院議員の任命と追放も行った。定員は2名で、任期は1年半。年齢上の資格は不明。

 

執政官 (Consul)

最高政務官で、軍司令官。定員は2名で、任期は1年。再選可能。年齢上の資格は40歳以上。執政官は常に二人一緒に選出され、途中選出の場合でも任期終了日は同じ。民会や元老院の召集権や法案提出権、軍事指揮権(相方の執政官と軍を二分して各々が自分の軍を指揮した)も保持し、加えてもう一人の執政官や下位政務官の決定に対し拒否権を行使する権限が与えられていた。また、非常時と認めた場合は、最長6ヶ月任期の最高官職である独裁官を指名する権限もあったが、実際には元老院の賛同を得て指名されたとされている。
また、帝政移行後も、初期の帝政は共和制の枠組みを乗っ取ったようなもののため、2名ずつ執政官は置かれ続け、執政官及び経験者は依然高い地位であり続けた。また皇帝と共に就くものはその後継候補者として大きな意味を持った。しかし541年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって官職としては廃止され、名誉的な爵位の名前として残るのみとなった。

 

前執政官 (Proconsul)

コンスルの任期満了後も軍事指揮権を継続して行使できるように作られたポスト。ローマが各地に属州を持つようになると、コンスルを任期満了で退任した者が、1-3年の間、プロコンスルとしてローマの属州総督として派遣された。プロコンスルが統治する属州はいくつか決まっており、各年の執政官の任期を終えた2名は、元老院の任命する属州に派遣された。どの属州に派遣されるかは、無作為に選ばれる場合もあれば、プロコンスルの職務に与る者同士で協議する場合もあった。

 

法務官 (Praetor)

当初は1名であったが、紀元前244年以降増員され、ローマ市民権を保有するローマ市民に関する司法を担当する首都プラエトル(プラエトル・ウルバヌス)と、ローマに滞在する外国人の司法を担当する外国人係プラエトル(プラエトル・ペレグリヌス)の2名が首都に配置されるようになった。紀元前228年には4名に増員され(シチリアサルディーニャ担当増員)、紀元前198年には6名(ヒスパニア担当増員)と、ローマが属州を獲得するたびに増員され、首都の2名以外は命令権保有者として属州総督の任にあたった。最終的には16名にまで増員された。任期は1年で、年齢上の資格は40歳以上。

 

財務官/会計検査官 (Quaestor)

国家財政と軍団会計を担当した。定員はもともと2名だったが、最終的に40名になった。任期は1年。年齢上の資格は30歳以上。

 

造営官 (Aedilis)

定員は貴族2名と平民2名で、出身階層が明らかにされた。後に6名に増員された。任期は1年で、年齢上の資格は30歳以上。公共施設やインフラの造営・管理、祭儀の管理、食料確保を担当した。剣闘士試合や野獣狩り、戦車競走、演劇などの開催も行った。

 

元老院 (Senatus)

最高立法機関。定員は300名で終身。コンスルなどの政務官(Magistratus)経験者から選出される。リキニウス・セクスティウス法から数年後に制定された法律により平民でも護民官などの重要な公職を経験した者は元老院議席を得ることができるようになった。政策を決定する法的な権限は与えられず、助言、忠告、勧告の権限しか与えられていなかった。

 

平民会 (Comcilium plebis)

聖山事件(BC494)を経て、設置された。プレブスだけが参加できる民会で、護民官を選出する。

 

護民官 (Tribūnus plēbis)

定員は2名だったが、最終的に10名まで増員された。任期は1年。年齢上の資格はなし。元老院コンスルの決定に対し、拒否権を発動できる。ただし、戦時には行使することができなかった。

 

執政武官 (Tribunus militum consulari potestate)

コンスルを巡る、パトリキプレブスの確執を緩和するために、コンスルに取って代わる職として創設された。プレブスでも選挙で当選し就くことができた。ただし、パトリキが基本的に定員の全部か大半を占めた。定員は3-6名で、年によって異なる。

 

食料供給長官 (Praefectus annonae)

定員は1名。都市全体に食料を供給する責任を負う。

 

造幣三人委員 (Triumviri monetas)

低位階梯公職。定員は3名。後に、カエサルにより4名に増員される。任期は1年。貨幣の製造を担う。造幣量は元老院の決議に基づいた。

 

リクトル (Lictor)

古代ローマにおける役職の1つで、命令権を有する要人の護衛を主な任務とした。共和政ローマ帝政ローマでも存在した。

 

命令権 (Imperium)

古代ローマで王に与えられた行政執行権で、軍司令権やローマ市民に対する死刑執行を含む法の執行権もこれに含まれた。共和政では1年の期限で、執政官 、独裁官護民官に与えられた。(後にプロコンスルやプロプラエトルらにも与えられた)

 

ラテン同盟/ラティウム同盟 (Foedus Latinum)

BC7世紀ごろに周囲の約30の国や部族と結んだ軍事同盟。総指揮権はローマが有した。戦利品は、半分はローマに、残りの半分は他の同盟諸国に与えられた。また、同盟に加入している国や部族の間では、市民権や結婚の権利、通商権は平等で、自由に移住することもできた。毎年1回ファレンティーナの森で協議が行われた。しかし、BC390年のケルト人襲来時に同盟諸国の離反を招き、軍事同盟として機能しなかったことからBC338年に同盟を解体し、対外関係の抜本的な改革に着手した。
以降、ローマは周辺国を植民市、自治市、同盟市に分けて関係を構築した。なお、ラテン同盟から離脱したものの、再度ローマに敗れた国には完全なローマ市民権を与え、併合した。それにより、ローマからの指令や軍政派遣を効率よく行うためにアッピア街道(BC312)などのローマ街道が次々に敷設された。

 

戸口調査 (Cēnsus)

徴税や徴兵のために行われ、BC443年以後は戸口総監が任命され、原則的に5年ごとに行なった。自己申告制であった。

 

元首制 (Principatus)

オクタビアヌスによって確立された帝政初期の政治体制。共和制の伝統を尊重した帝政で、皇帝はプリンケプス(元首)として統治した。

 

専制君主制 (Dominatus)

ディオクレティアヌス帝から始まる中央集権的な政治体制。皇帝はドミヌス(主)と呼ばれ、専制化、神格化された。

 

2) 法律関連用語

土地分配法案 (カッシウス法案)

BC486年に執政官で平民派のスプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスが提出した法案。同年に起こったヘルニキ族との戦いで和平条約が締結され、彼らはその領土の3分の2をローマに割譲する事に同意した。カッシウスは、この領土を他のローマ国有地と共にラテン同盟(ラティウム同盟)とプレブスたちに配給するよう提案した。ところが、元老院と同僚の執政官プロクルス・ウェルギニウスはこれを否決した。BC485年にカッシウスが退陣すると、彼はクァエストル・パッリキディ(査問官)のカエソ・ファビウスとルキウス・ウァレリウスから、王位を狙ったと糾弾され処刑された。以降、パトリキプレブスの対立はさらに激しくなった。

 

十二表法

古代ローマ初の成文法。
土地分配法提出以降、毎年のように護民官の提出するプレブスの権利拡大や、パトリキの権限制限を狙った法案を巡って争いが起きており、その妥結点として、パトリキプレブス双方から責任者を選出して新しい法を定める事が提案され、責任者についてはひとまず置き、ソロンの法や社会制度の研究のため紀元前454年にペリクレスによる民主政下のギリシア使節が派遣された。成文法の作成はローマの最高の権限を与えられたアッピウス・クラウディウスら十人委員会が担当し、その間は執政官や護民官といった通常の高位官職は停止された。BC451年にまず十表の法が制定され、その翌年に第二次十人委員会によって二表が追加された。しかし、十二表法はプレブスの期待したものとは程遠く不評であった。同法はその後改正を重ねていった。

 

カヌレイウス法

BC445年に護民官ガイウス・カヌレイウスによって制定された。パトリキプレブスの婚姻を可能にした。

 

リキニウス・セクスティウス法

BC390年のケルト人(ガリア族)襲来の教訓を得て、貴族と平民の対立を終わらせ、国を1つに統一する必要があったローマで、BC367年に護民官2人によって制定された。
‣トリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテを廃止しコンスルを復活させる。コンスルのうち1人はプレブスから選出されなければならない。
‣誰も500ユゲラ以上の土地を保持してはならない。
‣債務者がすでに払った利息は元本から差し引かれる。そして残額を3年間の均等分割払いで支払う。

 

ホルテンシウス法

BC287年に独裁官ホルテンシウスによって制定され、平民会の決議を国法とすることが定められた。

 

クラウディウス

BC218年に制定され、元老院議員とその息子たちが大型船を所有することを禁じた。

 

キンキウス法

BC204年に制定され、法廷弁護の名目で金銭や贈物を受け取ることを禁じた。

 

オルキウス法

BC182年に制定され、饗宴の人数が制限された。

 

ファンニウス法

BC161年に制定され、饗宴の費用が制限された。

 

ディディウス法

BC143年に制定され、ファンニウス法がイタリア全土に適用された。

 

センプローニウス法

BC120年に制定され、ローマ街道にマイルストーンが置かれた。
当時の1マイルは1000歩。現在の1481メートルに相当する。

 

3) 属州関連用語

イタリア権 (Ius Italicum)

ローマ皇帝によってローマ帝国の特権都市に与えられた名誉。市民権の地位を表すものではなく、イタリアに固有のものであった法的擬制をイタリア以外の共同体に与えたものである。これは、その地方やヘレニズム地方の法律よりもローマの統治下にあることを意味するものであり、属州の総督たちとの関係においては、より高い自律性を持ち、これらの諸都市で生まれた者は、自動的にローマ市民権を与えられ、 これら諸都市は租税を免除された。ローマの市民として、イタリア権を持つ人々は財産の売買をすることができ、地租と人頭税を免除され、ローマ法で守られる特権を獲得した。

 

植民市 (Colonia)

ローマ市民が入植し、建設した都市。住民には参政権のあるローマ市民権が与えられた。兵役あり。

 

自治市 (Municipium)

ローマに服属した異民族の都市。自治が認められた。住民には参政権のないローマ市民権が与えられた。兵役あり。

 

同盟市 (Socii)

ローマに征服されたものの、ローマの支配に最後まで抵抗した都市。住民にはローマ市民権は一切与えられなかった。兵役あり。
➙ BC1 南イタリアの同盟市が市民権を求め反乱 (同盟市戦争)

 

属州 (Provincia)

ポエニ戦争(BC264-BC146)以降にローマが征服した都市。住民にはローマ市民権は一切与えられなかった。兵役なし。

 

ローマ市民権 (Civitas)

民会における選挙権・被選挙権、婚姻権、所有権、裁判権とその控訴権、ローマ正規軍団兵となる権利、拷問されない権利、官吏の決定に反対して上訴できる権利などが与えられた。人頭税や属州民税(資産の10%で、収穫の33%程度)も課されなかった。また、コロッセウムでの観劇や浴場への立ち入りの権利や食料の無料配給権を与えられ、皇帝や有力者からの贈り物も受け取ることができた。加えて、植民地に移住すれば一定の広さの土地を無償で得ることもできた。
一方で、17歳から45歳までの男性は現役で、それ以降も60歳までは予備役として軍役につく義務があった。これは納税の代わりでもあった。
以下の方法でローマ市民権を得ることができた。
‣正式な婚姻の関係にあるローマ人の両親より生まれた男子は自動的に与えられた。
‣解放奴隷はローマ市民権が与えられるが、彼らは以前の主人(Patronus)と主従関係にあり、その庇護民(Clientes)となった。解放奴隷の子供には自動的にローマ市民権が与えられた。
‣ローマ人の軍団兵(百人隊長は除く)は正式に結婚はできず、内縁関係から子供があっても兵役期間内は子供にはローマ市民権が与えられなかった。しかし除隊・退役後には子供には認められた。
‣入隊当時ローマ市民権を持たなかったローマ支援軍の兵は兵役期間(25年)を務め上げ退役すると世襲ローマ市民権が授与された。その子供は自動的にローマ市民権を持つ事になり父とは違いローマ市民権を持つ者から構成されるローマ正規軍への参加が可能となった。ただし、140年以降一部の補助兵を除き、ローマ市民権が授与されるのは満期除隊した補助兵当人だけとなった。補助兵でも上位の隊長クラスになると、満期除隊を待たずにローマ市民権を得た。
‣属州の有力者などローマに対して大きな貢献をした者にはローマ市民権が与えられた。
‣夜警隊に通算9年勤務すると市民権がもらえた。
‣高額な金額を出資できれば市民権を買う事ができた。

 

4) 文化・社会用語集

フォルム (Forum)

王政ローマ時代から存在した公共広場。
帝政ローマ時代には、四周をバシリカ元老院、神殿などの公共施設や列柱廊で取り囲まれた計画的なオープンスペースとなり、屋根のない公共建築の観を呈するのが普通であった。フォルムは、幹線道路上に集落が形成されるとき、その中心に商店などが集まる「広場」として造られた場所を起源とする。町が発展し都市となると、フォルムは商業活動の中心だけでなく、政治・司法の集会、宗教儀式、その他の社会活動が行われるオープンスペースとなり、また市民生活の上で最も重要な都市施設となっていった。

 

公衆浴場

一般的の公衆浴場のことをバルネア(Balnea)といい、その中でも大きな公衆浴場のことをテルマエ(Thermae)と呼んだ。ドムスには内風呂があったが、インスラにはなかったため、テルマエやバルネアが帝政末期まで重要な役割を果たした。
入浴料は首都ローマで男女とも1クワドランス(4分の1アス)で、パン一斤の値段よりもはるかに安かった。子供や兵士、公務員の仕事をしている奴隷は無料だった。
もともと男女混浴が基本だったが、後にハドリアヌス帝により男女別々になり、時間帯で男女を入れ替え制をとることもあった。
フリギダリウム(冷浴室)、カルダリウム(熱浴室)、スダトリウム(発汗室)などがあった。カラカラ浴場には講義用ホールやラウンジ、図書館、運動施設などが併設され、大理石で作られた座席が1600席あった。
建物内は、床と壁に空間を空け、地下の炉から出た熱気を送り込み、屋根から排出される仕組みのハイポカウストという暖房システムが使われていた。ただ、ローマでは炉に石油や石炭ではなく、常に薪を使ったため、森林が次々に消え、洪水の多発など深刻な環境問題を引き起こした。

 

インスラ (īnsula)

庶民が住んだ大規模なアパートで、2-7階あった。建物の1階は飲食店(Thermopolium)や貸店舗(Tabernae)で、上層階が住居になっている。
4階まではレンガで作られ、5階以上は木材などの軽い建材が使われた。そのため、上層階ほどもろくて壊れやすく、家賃も安かった。
トイレやキッチンは付いておらず、トイレは公衆トイレか壺の中でし、食事は火鉢使って料理したり、飲食店を利用した。
「街区」という意味でもこの単語は使われた。

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https://www.imperivm.org/las-insulas-los-edificios-romanos-de-varios-pisos-de-altura/

 

ドムス (Domus)

富裕層が住んだ一戸建て。インスラの窓が外側につけられていて外側に開放されているのに対して、ドムスは外側の窓はあまりなく、中庭に向かって内側に開放されていた。

 

ヴィラ (Villa)

富裕層の別荘。
ヴィラ・アーバナ … ローマなどの都市近郊にある休暇用の別宅。知識人や富裕層の交流の場としても使われた。
ヴィラ・ルスティカ … 遠方の領地などにある農場を主体とした別宅。常に奴隷を置いて収穫作業(ブドウやオリーブ)などに従事させ、時々所有者が訪れて休暇を取った。所有者が不在の時は管理人がいた。

 

公衆トイレ (Foricae)

便座は箱型でそこに座って用を足した。仕切りや個室も一切なかった。利用者はもっぱら男性で、排せつだけでなく、会話を楽しむ目的もあった。
大便をした後は、キシロススポンジウム(Xylospongium)という海面が付いた棒で肛門を拭いていた。小便は再利用の価値があったため、壺にしていた。
もともとは無料だったが、ウェスパシアヌス帝が有料化した。そのため、以降は公衆トイレ管理人(Conductores Foricarum)が常駐し、少額の利用料金を徴収していた。
公衆浴場には上下水道が整備されていたため、フォリカエは公衆浴場の近くや内部にあることが多かった。下水道の上に建てられ、下水が便を流す水として再利用された。

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https://imperiumromanum.pl/en/roman-society/hygiene-in-ancient-romans/

一戸建ての住宅にもトイレはあったが、上下水道に接続されていなかったため、敷地内の汚水槽に貯められた。
また、アパートの上層部では持ち運び可能な室内用尿壺(Matela Fictilis)が使用されたが、壺に入れず、窓から放り捨てる住人もいた。毎年100万立方メートルの糞尿やゴミ、生活排水がティベル川に流されていたため、2世紀ころになると川の汚染が深刻になっており、医師たちは川の魚貝を食べないように警告した。

 

テルモポリウム (Thermopolium)

庶民用の飲食店。
調理台にはドリア(Dolia)という壺が埋め込まれており、冷たい食べ物や乾燥させて食べ物はこの中に入っていた。
また、調理台の上には火鉢が置かれ、その上に三脚台や金網をかぶせて調理を行っていた。煙突はなく、煙は壁穴から逃がしていた。

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ポピナ (Popina)

庶民用のワインバー。軽食も提供された。
ここで朝食をとることが庶民の間では一般的だった。
オリーブやイチジクを固めたもの、チーズ、ゆで卵、塩漬けの魚、ローストチキンなどが提供された。調理した肉の販売は禁止されていたが、守っているポピナは少なかった。

 

ピストゥリナ (Pistrina)

パン屋。
重労働であったため、解放奴隷の開業者が多かった。
首都ローマには300軒以上のパン屋があった。
後に製パン技術を学べる専門学校が開設されたり、パン屋の親方は国家の管理下に置かれ、国から給料をもらう国家公務員職になった。

 

結婚 (Matrimonium)

BC1世紀以前のローマでは結婚は、ファール麦のお菓子を用いた宗教儀式を行うファール共食式(コンファーレティオ)、妻となる女性を夫側の家が書いとる手続きを行う共買式(コエンプティオ)、夫婦となる男女が1年間同棲して結婚の是非を男性が決める使用式(ウースス)のいずれかだった。
法律上、妻は実父の娘から夫の娘となり、実家での法定相続権を失い、妻の個人財産は夫のものになった。夫が死亡したときは、婚家での法定相続に加わることができた。
BC1世紀以降、妻は夫の手権に服さず実父の娘のまま嫁ぐことができるようになり、実家での法定相続権を保持し続けた。一方で、死亡した夫の財産に対する法定相続権は失った。また、同時期に妻にも離婚を申請する権利が認められ、妻の所持金は離婚時に返還されるようになった。
結婚可能年齢は、男性が14歳もしくは身体検査で結婚可能と判断されたとき、女性は12歳とローマ法で定められた。届出など法律上の手続きはなく、結婚式を挙げる必要もなかった。ただし、ローマ市民同士の結婚でなければならず、法廷年齢を超えてない者の結婚や四親等以内の結婚は禁止されていた。
初婚の女性には処女であることが求められた。また、花嫁側には嫁入り前の持参金(Dos)が求められ、準備できない場合は近親者や自分の被解放自由人との結婚を余儀なくされた。持参金は再婚の際も必要だった。
女性が若い年齢で結婚する場合、未成熟な子宮を傷つけて後々の妊娠出産に支障をきたすことがないように新婚初夜にはアナルセックスが行われることもあった。

 

教育 (Educatio)

ローマには義務教育はなく、ギリシアとのつながりがより密接になったBC3世紀ころから教師が社会に登場するようになり、7歳くらいから11歳くらいの子供たちは初等教師から読み書き計算を習うようになった。教師の多くはギリシア文化圏出身の奴隷や被解放自由人だったため、教師の地位は低く、授業料も安かった。
BC250年頃から私立の学校が登場した。ただし、校舎を持たないことも多く、公共広場や路上で授業が行われることもあった。7歳から13歳までは男女共学の小学校に通うのが一般的だった。舞踊や音楽を学ぶための女子校も存在した。
BC2世紀の末頃から、ギリシア語とラテン語で書かれた文学作品を教科書にして文法や文学を教える中等教師や修辞学を教える高等教師が出現した。
帝政期には、主要都市で修辞学教師の公設ポストが設けられた。また、口頭教育をローマで修めた後にギリシアなどへ留学する者もいた。

 

図書館 (Bibliotheca)

開館時間は夜明けから正午までで、貸し出しは行われていなかった。
4世紀のローマには大きな図書館が28館あった。

 

書店 (Libraria)

共和政の末期から書店が多く存在するようになった。
執筆は口述で行われ、筆記者(Librarii)が記述した。そのため、速記術のスキルが重宝された。
出版者によって出版された本は2-3週間で数十部だった。
値段は廉価版で約2セステルティウス、豪華版で約20セステルティウスだった。(2セステルティウスは公衆浴場の入館料の約32倍)
現在のような本の形は1世紀ころから登場するが主流になるのは4世紀以降でそれまでは巻物タイプが主流だった。

 

5) 食関連

食事 (Epulum)

古代ローマの食事は、朝食(Ientaculum)、昼食(Cena)、夕食(Vesperna)の3食で、夕食は軽くつまむ程度だった。それがギリシアの影響を受けると、Cenaの内容が豪華になり、Vespernaにとって代わり、昼食(Prandium)が導入されるようになった。夕食は、電気がなく、たいまつも高価であったため、午後3時-4時に食べるのが一般的だった。饗宴もこの時間帯に行われるのが普通だった。
主食はプルスやパニスで、ヒヨコ豆やレンズ豆などの豆類、キャベツやレタス、タマネギ、ニンニク、オリーブ、根菜類なども野菜も食べられていた。
肉は猪肉が最も好まれ、豚肉も食べられていたが、高価であったためこれらは金持ち向けで、庶民は魚介類やチーズなどを食べてたんぱく質を摂取していた。魚や肉を干物やスモーク、塩漬けにすることもできた。
味付けには、塩や酢、ハチミツ、果物が使われた。また、ガルムも使われた。ローマが他国と貿易をするようになると、様々なスパイスが入ってきたが高価であったため庶民に縁はなかった。
シルフィウムという北アフリカ原産のハーブは香辛料や薬草として大いに人気があったため、大量に採取され、栽培することもできなかったため絶滅した。
飲み物はワインが最もよく飲まれた。山羊や羊、馬、ロバのミルクがあったが、飲み物として飲まれることはあまりなく、チーズやヨーグルトの原料として使用された。
コーヒー豆は古代ローマに存在しておらず、コーヒー豆を煎って、飲料として飲むことがヨーロッパに伝わったのは17世紀に入ってからだった。
金持ちは雪を保管し、冷蔵庫・冷凍庫にできる氷室を自宅に備えていたが、庶民にはそんな余裕はなかった。
歴代皇帝によって庶民への穀物などの食糧の無料配給が行われた。

 

食器

山盛りの料理を小分けにするときに使う大きめのスプーン、リグラ(Ligula)と軟体動物を突いて食べるときに使う小さめのスプーン、コクレアル(Cochlear)は存在したが、人々は基本的に手づかみでものを食べた。フォークが誕生したのは中世で、古代ローマには存在しなかった。

 

ローマの魚の消費がどのように形作られていったかの歴史はまだ完全には解明されていない。魚に対する食欲を持っていなかった初期のローマ人は、豚肉やベーコン、チーズ、果物、野菜(主に豆)を食べた。 しかし、最も遅くてもBC3世紀までには、魚の消費文化(基本的に海魚)が確実に存在していた。
初期のローマでは魚への嫌悪感により、宗教的な儀式での役割を果たさなかったため、その消費は神聖な規則や祭りによって制限されなかった。多くの文学的および考古学的証拠が、共和国末期までには特に海で、漁業がかなり重要であったことを証明している。また、古代ローマでは魚の養殖も行われていた。

 

プルス (Puls)

古代ローマの主食で、殻付きの麦の粥。

 

マーザ

大麦にハチミツや酢を少量入れ、水で伸ばしてかき混ぜ、そのまま食べたり焼いて食べたりした。

 

パニス (Panis)

パン。BC2世紀の初めに回転式の挽き臼が導入されると、殻なしの麦が普及するようになり、パンが食べられるようになった。
初期のパニスはエンメル麦という穀物からつくられており、紀元前後に小麦で作られるようになった。

 

モレトゥム (Moretum)

ニンニクと塩で硬めに仕上げたチーズにパセリ、ルー、コリアンダーなどの香草を塩と共にすり潰し、仕上げにオリーブオイルと酢をたらして作られたペースト。パンに塗って食べられた。

 

ガルム (Garum)

サバやイワシ、ニシン、マグロなどの魚や貝、エビなどの食べない身の部分や内臓を壺に入れて、発酵させた魚醤の一種。

 

ラガーネ (Lagane)

小麦粉を薄くのばしてパスタ上にしてオリーブオイルで焼いて食べた。現代のパスタ料理と違い、煮て食べることはしなかった。古代ローマでは現代のパスタ料理は存在しなかった。

 

ヴィヌム (Vinum)

ワイン。最も飲まれた飲み物だが、生で飲むことはほとんどなく、水で割ったり、スパイスを足して飲んでいた。

 

ムルスム (Mulsum)

ワインとハチミツを混ぜたもの。食前酒として飲まれた。

 

デフルトゥム (Defrutum)

ブドウ汁を煮詰めて甘くしたシロップ。水で割った飲んだ。

 

ポスカ(Posca)

酢と水を混ぜた飲み物。

 

6) 衣服・美容関連

衣服 (Vestimenta)

日常の衣服は家の女性たちが作るのが一般的だった。そのため、機織りの腕前がローマ女性の美徳の1つとされていた。絹を用いた高級な衣服や、加工の際に高い技術を要するような衣服は専門の工房で作られていた。

 

トガ (Toga)

ローマ市民男性の正装。共和政末期までのトガは丈の短いシンプルなものだったが、末期以降は丈が長く複雑なドレープをもったものが主流になった。幅は5.5メートルで、丈は2メートルほどあった。
ローマ市民だけが着用を許され、市民権を持っていない外国人や奴隷、解放奴隷は着ることができなかった。
トガは美しく着ることが他の衣服よりも特に求められたため、着つけ専用の奴隷がいた。アイロンがけも奴隷の仕事だった。
元老院議員はトガ・プラエテクスタ(Toga Praetexta)という幅広の赤紫色の縞がついたトガを、騎士身分の市民は同じトガ・プラエテクスタでも幅狭のトガを着用していた。
また、戦争で大勝利を収めた将軍は凱旋式の時に、トガ・ピクタ(Toga Picta)という金糸で刺繍した全体が赤紫色のトガの着用が許された。政務官選挙の候補者たちはトガ・カンディダ(Toga Candida)という白いトガの着用が許された。
下級の神官や占い師は一般のトガより一回り小さく、紫色のトガ・トラベア(Toga Trabea)を、成人は生成色のトガ・ウイリリス(Toga Virilis)を着用した。また、葬式や友人、家族が逮捕されたときはトガ・プラ(Toga Pulla)という濃い灰色の生地のトガを喪服として着た。
ただし、着用や手入れが大変だったため、帝政期になるとあまり着られなくなった。
古い時代は、女性もトガを着用していたが、後に売春婦だけが身につけるようになり、女性のトガ着用は好ましくないものとして認識されるようになた。

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トゥニカ (Tunica)

BC2世紀ころから一般的になった袖と丈が短い服で男性用。
元老院議員は幅広の赤紫色の縞がついたTunicaを、戦車競走の御者は、各自が属する組のチームカラーのTunicaを着用していた。

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ダルマティカ (Dalmatica)

2C初めにダルマチア地方からもたらされたもので、当初は貧しいローマ自由民がきていたが、一般市民や貴族たちに広がった。現在はローマ法王の正装になっている。

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https://www.gruppoliturgico.com/en/prodotto/dalmatic-7/

 

パエヌラ (Paenula)

ダルマティカの上に羽織られた厚手のウール生地の袖なしマント。フード付きのパエヌラ・ククルラタというものも存在した。

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https://projectbroadaxe.weebly.com/commission-projects/roman-wool-paenula-charlie-g

 

ラケルナ (Lacerna)

BC1世紀ごろにローマに入ってきた腰丈までの短いコートで、トガで寒い日の行事に参列するときに用いられた。

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https://romaikor.hu/a_romaiak_mindennapi_elete/a_romai_divat/uti_ruhazat_es_oltozet/cikk/lacerna

 

サグム (Sagum)

ガリアやイベリア半島からもたらされた丈の短いコート。後に高級軍人用の衣装となり、丈が長くなっていった。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Sagum

 

スブリンガクルム (Subligaculum)

男女両方の下着。
肉体労働者はこれだけつけて作業していた。

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https://www.armae.com/en/articles/vt605-gladiators-subligaculum-woolen

 

ブラカエ (Braccae)

ガリアからもたらされたウールのズボン。ティピアリアというスパッツと合わせてはくのが一般的で、戦や狩猟時に着用された。

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https://projectbroadaxe.weebly.com/miscellaneous-history-projects/how-to-donning-roman-braccae

 

ストラ (Stola)

既婚女性用の丈の長いドレス。
姦通をした女性や売春婦は着てはならなかった。
襟ぐりには既婚を示す縁飾りがついていた。
ストラの上にPallaというショールを羽織ることもあった。

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https://www.stmargaretsprimary.org.uk/_data/site/305/pg/376/RomansReadingLevel3.pdf

 

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https://www.pinterest.com/pin/roman-clothing--271130840047493920/

 

マミラレ (Mamilare)

女性用のブラジャー。

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https://www.reddit.com/r/ancientrome/comments/wzgf4n/replication_of_a_roman_strophium_ormamillare/?rdt=35129

 

カスチュラ

アンダースカート。

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https://www.news-postseven.com/archives/20190904_1444086.html?DETAIL

 

パルリウム (Pallium)

男性用のマント。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Pallium_(Roman_cloak)

 

カラカルス (Caracallus)

兵士用のフード付きの外套。

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https://www.ostia-antica.org/caracalla/family/caracallus.htm

 

シュンテシス

饗宴の時に着られた薄く軽い素材でできた上下白の使い捨て服。

 

ソレア (Solea)

カジュアルなサンダル。公の場で履くことはマナー違反とされた。

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https://www.resrarae.de/2nd-century-ad/solea-from-antinoe/

 

ソックル

ソックルににたサンダル。白、赤、金など様々な色に染められた。富裕女性は真珠などで装飾したソックルを履いた。

 

カルケウス (Calceus)

ローマ市民だけが履けた正装用の靴。
組みひもの色で身分が分かるようになっており、貴族は赤、元老院議員は黒の紐を用い、半円の象牙のバッジをつけた。帝政期以降は一般市民も象牙のバッジをつけることができた。軍隊では百人隊長以上の者だけが履くことができた。

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https://yourfreesm.xyz/product_details/26533967.html

 

カリガ (Caliga)

軍用靴で、靴底に描画打たれている。

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https://www.pinterest.com/pin/a-pair-of-caligae-i-made-after-one-of-the-finds-from-mainz-9-another-interesting-model-after-doing-lindenschmitts-2-and-the-almost-complete-caliga-from-ca--12173861471896613/

 

ペロ

革のズック靴で、位の低い軍人や農民、労働者たちが作業靴や日常靴として履いた。

 

カンパグス (Campagus)

丈の長いブーツのような靴。
もともとは軍用靴たっだが、皇帝が軍隊と結びついてからは皇帝や上級貴族の履物となった。

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https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47e1-3322-a3d9-e040-e00a18064a99

 

スクルボネア

貧しい農民や奴隷が履いた粗末な靴。

 

ムルレウス

踵が高くなったエトルリアからもたらされた靴。

 

貞操

主に女主人を世話する男性奴隷が装着させられることが多かった。
Fibulaと呼ばれるピンで包皮を留めて、革製の封入袋か金属製の鞘をかぶせる形だった。

 

帽子

帽子はマナーに反する服装と考えられていたため、古代ローマ人は基本的に帽子をかぶらなかった。ただし、神官が供養や祈願でかぶることはあった。また、葬祭業者は穢れた存在と考えられていたため、市内への居住は許されておらず、仕事で市内に入る場合には特別な色の帽子をかぶることが義務付けられた。
帝政末期になると縁なしの帽子が流行したが、女性がかぶることはなかった。

 

フロニカ (Fullonica)

クリーニング屋。洗濯物を大きな水槽に入れて、フラー土と呼ばれる漂泊作用のある強アルカリ性の土や人間の尿を水で薄めた溶液を注ぎ、手足を使って押し洗いした。それでも落ちない汚れは別室に持ち込み、硫黄の煙で燻蒸された。
洗濯後の服はすすいだ後に、粘土の粉をとかした水槽に浸けられ、店の外や中庭に干された。そして、最後にワインやオリーブオイルを搾る圧縮機を使って皺を伸ばした。

 

床屋 (Tonsores)

BC3世紀以降にローマで需要が高まり、カピトリヌスの丘の近くにあったフロラ神殿のたりに、床屋通りという一帯があった。また、ローマ下町のアルギレトゥムにはたくさんの床屋があった。
女性が床屋を利用することはなかった。
アウグストゥス帝の時代頃までは、女性の髪型は真ん中から分けた髪をそのままか細紐で結んで、後頭部へつめて丸髷にしてまとめるというシンプルなものが一般的だったが、ネロ帝かトラヤヌス帝の時代にかけて複雑な髪型が流行した。
また、髪染めや鬘もあった。ただし、鬘は女性用で、男性がつけると女々しいと非難された。

 

美容

帝政ローマの女性は、つめの手入れをする器具、毛抜き、つまようじ、耳かき、かみそり、お風呂で身体に塗った香油を掻き落とし汗や垢を擦り落とす器具などを使い、美容に気を配っていた。
化粧の文化もあり、白亜や白鉛を成分とするファンデーションで顔を白くし、アルカナや桑の実などの植物からつくられた口紅や黒い煤やアンチモンの青い粉末からつくられたアイシャドーを塗った。
美白にも気を配っていて、小麦粉をロバのミルクでこねた美白パックや、卵やハチミツ、雄鹿の角や水仙の球根などを原料とした美白パックが使われた。
日よけ帽子や日傘も存在していた。
歯を白く保つために、鹿の角や犬の歯、軽石などを焼いた灰にハチミツや没薬、ワインなどを混ぜた歯磨き粉が使われた。また、人の尿を原料とした歯磨き粉も使われていた。
また、イヤリング、ブレスレッド、腕輪、印章なしの指輪、髪飾り、婦人帽、スカーフ、真珠付きのヘアピン、ヘアネットなどのアクセサリーがよくつかれれた。また、琥珀も一般的なアクセサリーだった。

 

7) 剣闘士 (Gladiātor)

剣闘士の試合は、もともとエトルリア人から入ってきたものだったが、エトルリアでの剣闘士の試合は娯楽ではなく宗教的な行事で、戦争で亡くなった死者の魂を慰めるために奴隷に死ぬまで戦わせるものだった。
剣闘士の大半は奴隷で、個人運営の養成所で訓練を積み、貸し出された。リース料は80セステルティウスだったが、剣闘士が負傷したり死亡したら4000セステルティウスで買い取らなければならなかった。しかし、スパルタクスの反乱以降は1世紀までに全て公的管理下に置かれることになった。
自由人が出場することもできたが、護民官の前で宣誓しなければならなかった。
また、剣闘士はアイドル的な人気を博していたため、その人気ぶりにひかれて元老院議員や騎士、皇帝自らが出場することもあった。
ネロ帝の時代には奴隷が不足したこともあり、剣闘士の3分の2はローマ市民だった。
剣闘士の試合は後に野獣狩りなどの別の催しとセットで開催されることが多くなった。例えば、午前中に野獣狩りが行われ、観客の多くは昼食のために闘技場を後にし、午後に剣闘士の試合が行われた。また、昼食の間に闘技場で罪人の処刑が行われた。
試合は1対1で、平均試合時間は20分ほどであった。
どちらかが絶命した場合はその時点で試合終了となった。また、どちらかが負傷したり、投了した場合は試合は中断され、レフリーが試合を終わらせるかを判断した。レフリーが判定し、勝者が決まり、試合が終わった場合、敗者は命乞いをし、その処分は観客にゆだねられた。
勝者には棕櫚や月桂樹の葉でつくられた冠が与えられ、さらに貴金属の槍や首飾り、土地が与えられることもあった。
また、報酬も支払われた。アウレリウス帝治世での報酬は、最高ランクの剣闘士の上限が15000セステルティウス、最低ランクの剣闘士の上限が1000セステルティウスで、高額だった。
ちなみに、剣闘士の試合で費やせるお金は200000セステルティウスと法律で定められていた。
また、奴隷身分の剣闘士が8-9回勝利した場合は自由の付与と引退が許されることもあった。
もともとローマには休日はなかったが、勤労者の身をもたせるために剣闘士などの見世物を見せる日を休日として設けた。五賢帝時代にはこの種の休日は急増した。
闘技場の座席は身分によって厳格に区分けされていた。

 

8) 役者

社会的地位は極めて低く、ほとんどがギリシア人奴隷だったが、主役だけはローマ市民が演じることができた。ただし、その市民は参政権を失った。アウグストゥス帝以降は元老院家系の者と俳優の結婚は認められなくなった。女性は舞台に立つことができず、女性を演じるときは俳優が仮面をつけた。

 

9) 医療

ローマに医者を生業とする者が初めて現れたのはBC219年で、それまでは家父長が薬に関する知識を駆使して、自分たちで健康を維持していた。
薬の販売に関する規制はなく、素人がインチキな薬を売ってもお咎めなかった。
薬の原料として、植物の根や葉、動物の脂、ハチミツ、酢、パン、好物などが使われた。とりわけ、北アフリカ原産のラセルピキウムという植物の根から採った汁が滋養強壮、消化不良、循環器系の疾患、婦人病、痛風、喘息、水腫、てんかん、ヒステリー、肋膜炎に効果があり、毒蛇やサソリの毒を解毒するなど様々な効能があるとされ、よく使われた。
BC219年以降、医者の数は増えていき、帝政期では至る所に医者がいた。また、帝政期には専門分野の細分化も行われた。
3世紀のアレクサンデル・セウェルス帝の時代には、皇帝お抱えの医師に御殿医という肩書が与えられ、意思の権威と公益性が確立した。ただし、御殿医を除いて、全ての時代を通して医師の資格試験や免許はなく、名乗ればだれでも医者になれることができた。帝国の東部には医学校があったが、西部にはなかった。
外科用のハサミやメス、ピンセット、抜歯用の鉗子、骨を挟んで固定しておくための鉗子、眼球内の治療に用いられた針、肛門や子宮の拡張器具、カテテール、吸角などの医療器具が使われた。癌、特に乳がんの手術が行われることもあった。