王政ローマ人物事典

ローマの七丘 (Septem Montes Romae)

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https://www.heritage-history.com/ssl/cds/ancient_rome/html/guide_maps.html

 

➀ アエネーアース

出自/相関 : トロイヤ王家のアンキーセースと女神ヴィーナスの息子。
治世 : 
‣トロイヤ戦争に参戦したが、木馬作戦に引っ掛かり陥落したトロイヤから逃げ出し、現在のローマ近くの海岸に到達し、その地の王の娘と結婚し、都市ラウィニウムを建設した。

 

➁ アスカニウス

出自/相関 : アエネーアースの息子。
治世 :
‣ラウィニウムを義母に譲り、都市アルバ・ロンガを建設し、移り住んだ。

⑬ アムリウス

出自/相関 : 第12代王プロカの息子。兄ヌミトルとの王位継承争いを制し、即位した。
治世 :
‣王位を確実なものにするため、兄の娘レア・シルウィアを永遠の処女にし、後継ぎが生まれないように図るも、軍神マルスとの双子を産んだことを知ると、彼女を捕らえ、双子をテヴェレ川に流した。

 

ロムルス

在位 : BC753-BC717
出自/相関 : レア・シルウェアの息子。産後、アムリウスに母親から引き離され、川に流されたが、下流でオオカミに発見され、命を救われた。その後、羊飼いに育てられた。
治世 : 
‣レムスとアルバ・ロンガに攻め込み、アムリウスを倒した。
‣王位をめぐってレムスと仲たがいし、ロムルスはパラティヌスの丘で、レムスはアウェンティーノの丘を拠点にし、共同統治をすることにしたものの、再度仲たがいし、ロムルスがレムスを殺害した。
‣BC753年、3000人のラテン人とパラティヌスの丘の周囲に城壁を築き、都市ローマを建設し、初代王となった。
‣国政を王、元老院、市民集会の3つに分けた。
➙ 100人の家長たちを招集して元老院を創設した。その100人はパトローネスであった。(貴族のはじまり)
‣都市内のラテン人の大半は独り身であったため、都市の維持と拡大のために、サビーニ族を攻め、女性を略奪した。サビーニ族の男性に対して、クイリナリスの丘を割り当て、ローマに移住するように提案し、彼らはこれを受け入れた。
‣百人隊制度(ケントゥリア)を考案した。

➁ ヌマ

在位 : BC715-BC673 (市民集会の賛意を得て王に即位した)
出自/相関 : ローマ北東のサビーニ族の土地出身のサビーニ人。
在位 :
ヤヌス神殿を建設した。
‣農業と牧畜の振興に尽力した。
‣市民たちを各種の職能別に分け、各々が独自の守り神を持つ組合に所属するよう決めた。
‣月の満ち欠けに準じて、もともと10か月だった1年を12か月と決め、1年の日数を355日と決めた。
‣年間の祭日と休日を整備し、毎月9日目と15日目は市が立つようにした。
‣ローマの神々にヒエラルキーを与え、神々を敬う大切さを教えた。ただし、一神教にはしなかった。
‣神官の組織を整え、神官階級の長に最高神祇官を置き、その下に5人ー10人の神祇官を置いた。また、聖火を守る巫女たちや10人ほどの祭司たちも置いた。巫女たちは30年間の勤務で、その間処女でいることが求められた。ただし、専任の神官は置かなかった。

 

➂ トゥルス・ホスティリウス

在位 : BC673-BC641
出自/相関 : ローマ。
在位 :
‣アルバ・ロンガとの3対3の決闘に勝利するも、アルバ・ロンガがローマに忠誠を誓わず、近隣の部族を扇動し、ローマに宣戦布告した。トゥルスはアルバ・ロンガを攻め落とし、街を徹底的に破壊した。住民たちを奴隷としてではなく市民としてローマへ強制移住させ、市民権とチェリオの丘を与えた。また、クインティリウスやセルヴィウス、ユリウスなどのアルバ・ロンガの有力一族を元老院議員にした。

 

➃ アンクス・マルキウス

在位 : BC641-BC616
出自/相関 : ヌマの娘の子供。ローマ出身のサビーニ人。
治世 :
‣ローマ以外に住むラテン人やサビーニ人と戦い、彼らをローマに強制的に移住させ、市民権とアウェンティヌスの丘を与えた。
‣テベレ川に橋をかけた。
‣テベレ川の河口にあるオスティアを征服し外港とした。また、オスティアの征服に伴い、周辺の砂浜での塩田事業を手にした。(当時のローマは物々交換であった)
‣近隣のラテン人とラテン同盟を結んだ。

 

⑤ タルクィニス・プリスコ

在位 : BC616-BC579 (ローマで初めて選挙活動を行い、当選して即位した)
出自/相関 : エトルリア出身だが、父はギリシア人で、母はエトルリア人のハーフ。
治世 :
‣元老議員とケントゥリアの数をそれぞれ倍の200人にした。
‣戦争で破った相手をローマに移住させず、戦利品だけを奪い取り、凱旋した。
‣クロアカ・マキシマ(Cloaca Maxima)を建設した。
➙ ローマの丘と丘の間にある湿地帯を有効活用するために作られた下水システムで、ローマの丘と丘の間にある湿地帯の水をテヴェレ川に排水する。水が抜けた湿地帯は石で舗装され、政治や宗教の中心になるフォルム・ロマヌム(Forum Romanum)や大競技場であるキルクス・マクシムス(Circus Maximus)が建設された。当時のローマ人はクロアカ・マキシマを建設する技術を持っていなかったため、エトルリア人技術者を雇い入れ、技術を学んだ。
‣カピトリヌスの丘にユピテル神殿の建設を開始した。 
エトルリア人のセルヴィウスを養子にし、自身の後継者としたことで、王位を狙っていたアンクス・マルキウスの息子2人に暗殺された。

 

⑥ セルウィウス・トゥリウス

在位 :  BC578-BC535 (市民集会での選出を経ずに、元老院での決議だけで即位)
出自/相関 : エトルリア人
治世 :
‣高さは最高で10mで、基部の幅は3.6m前後、全周は11kmで16の大門があるセルヴィウス城壁(Murus Servii Tullii)をローマの周囲に建設した。
‣アウェンティヌスの丘にディアナ神殿を建設した。
‣はじめてローマの人口調査を行い、軍制、税制、選挙制度を改革した。
➙ 経済力をもとに6階級に分け、最も経済力がある第一級には98票の選挙権が与えられた。(ローマでは1人1票ではなく、ケントゥリアごとに1票)
軍備は自前のため、経済力のある方が重装備だった。
16歳未満の未成年男子と60歳以上の高齢者、女性、奴隷、無産者は直接税でもある軍務を免除された。子供のいない未亡人は騎兵の使う馬の維持費として年に200アッシス(銅)払うことが義務付けられた。
‣軍を前衛、本隊、後衛の3つに分ける戦法を確立した。
‣娘の小トゥッリアと、その夫でタルクィニス・プリスコの息子のタルクィニウス・スペルブスに暗殺された。

 

⑦ タルクィニウス・スペルブス

在位 : BC535-BC509 (市民集会での選出を経ず、元老院での決議もなく即位)
出自/相関 : エトルリア人
治世 :
‣セルヴィウス・トゥリウスの葬儀を禁じ、セルヴィウス派の元老院議員を粛正した。
‣市民議会と元老院を軽視し、政治を行った。 
‣息子のセクストゥスが親族の妻のルクレツィアを強姦したことで、彼女は父親と夫と彼らの信頼できる人物たち(ウァレリウスとルキニウス・ユニウス・ブルータス)に伝え、自殺した。彼らはタルクィニウスに不満を持つローマ人らと蜂起した。タルクィニウスはエトルリアに逃げ、妻もローマから逃げ、無事だったが、セクストゥスは暗殺された。これによりローマの王政は終わりを告げた。